梟の島 -叙情的叙景詩-

-叙情的叙景詩-

「二項対立」は終わらない。

f:id:anachro-fukurou:20220201100335j:plain

 


近頃はもう,深く掘り下げて思考し,文字に記録する体力が衰えてきている。そんな右肩下がりの状態に少しでも抗うために,敢えて書こうと思う。

 

自分には,思考自体を言語では行っていないという感覚がある。いや,こう書いてしまうと「思考は言語でするものだ」と御叱りを頂いてしまいそうだ。ニュアンスとしては「日本語では行っていない」というほうが正しい。

誰でもそうなのか,自分が特異的なのかはさておき,そしてこれが決して自慢にはならない特性であることをきっと理解して頂けるだろうと信じて書くが,自分の思考速度は自分でも追い付くことが出来ないほど速い。一瞬で現れ,一瞬で解決し,一瞬にして排水口に吸い込まれてゆく。この「一瞬」は比喩ではなく,自覚としてはコンマ数秒のイメージである。そしてそれを日本語化するという作業は,思考にとんでもなく強力なブレーキを掛けることに他ならない。この文章をタイピングしている時間も,僕の頭の中はまるで小学生が国語の教科書を朗読しているのを聞いているような感覚である。日本語化する―話す,書く―は最も手っ取り早いブレーキだし,旅先での独り言,抽象的な言語を操るのを好む友人とのゆっくりとした対話などは,どちらも最高級の減衰機構である。

人生の為に,意図的に減速するよう心掛けなければいけないのは重々承知している。そうしないと思考が短絡的になるからだとか,ミスを生むからだとか,そんな理由ではない(そこまで拙速なつもりはない)。以前もどこかで書いた記憶があるが,トップギアのまま走り続けていると,思考の脇道への入口を見つけられなくなってしまうのだ。高速道路をひた走っていても,景色に大した変化は生まれない。距離は稼げたとしても,そのプロセスの時間は浪費され,常に眠気を帯びたような退屈な状態から脱することが出来ない(そしてその先にあるのは何とも嫌な疲労感のみである)。信号の多い下道に意図的に下りないと,いくら面白いものが存在していたとしても,その存在に気付くことすらできず,すぐ傍を通過することしかできないのだ。こんなに勿体ない事があるだろうか。別府の標準市場を発見したのだって,赤信号のお陰だったじゃないか。

(ところで,人の書いた文章を読むと,その良し悪しや好き嫌いに関わらず数えきれないほどの脇道の入口が見えてきてしまい,気が散ったり物思いに耽ったりして一向にページが進まないこともしばしばであるが,今日はこの段落自体を脇道に置いておくとする。いつかまた此処から発展させてみよう。)

時間が掛かると分かっていても「思考の下道」を選ぶ「余裕」を作る。これは存外に難しいことである。仕事や家庭と両立させるとなればなおのこと。自然に実戦できている人が羨ましくて仕方がない。この「余裕」は,既に道路に喩えたように,旅のスタイルについても全く同じことが言える。旅先の飲食店や喫茶店の片隅でぼうっと物思いに耽るなど,余程のことが無い限り自分には難しい。

いったい何故できないのだろうか。単にせっかち,貧乏性という理由だけでは片付けられない,面倒な二面性が潜んでいる。

まずは欲深さ―いくらでも見たいもの・やりたいことがある,他人の経験に意味は無く,自分がその「もの」や場所と対峙したり経験したりしなければ決して満足できない欲求―がある。次に,これを阻害する要素がある。インプットの洪水に対する耐性の低さである。3日も旅を続ければ感性は麻痺してしまい,たちまち行程を消化するだけのドロイドになってしまうのだ。また,感性が鋭敏な状態であったとしても,そのすぐ傍に気を散らせる要素が少しでもあれば,折角のインプットも全て台無しになってしまう(鉄道撮影における体験とプロダクトの関係についてもしばしば言及している)。この二面性を喩えるなら,食い意地が張っているのに胃は小さくて弱い,とでも言えるだろうか。この二項対立の力が拮抗してしまうと,本来は楽しいはずの「やりたいことリスト」の行数が単調増加を辿る一方で,それに対する恐怖のような焦燥が膨らんでゆく。こうして結果的に「余裕」を失うのである。

さらに,この両軍にはそれぞれ援軍が居る。前者には「未練」が味方する。「このままのリズムで行動していては,時ばかり流れてゆき,見たかったものを見ることが出来ないまま感性が鈍化し,身体も心も老いていってしまうぞ」と,常に背中を焚きつける。この正体は,焦燥が脅迫めいた姿へと変貌したものである。いっぽう後者には「整理整頓しなければ気が済まない性分」がついている。「大したことない写真まで含め,ブログに整理しておきたい,見たままを,感じたままを,少しでも綺麗に保存しておきたい,それが未来の自分のためなのだから」と念仏のように耳元で唱え続けていて,結果として未編集の旅行記が溜まってゆく。援軍同士でも力が拮抗しているものだから,いつまでたっても戦いは終わらない。2016年8月以前の写真も再度まとめ直して世に出しておきたいという願望も残っているので,どちらかといえば常に後者が優勢である。

 

それでも2022年,もう2月にはなってしまったが,前者が優勢になりつつある感覚がある。関東近郊の行きたい場所を書き出して,愕然としてしまったのだ。晴れた週末は必ず出掛けるようにしたとしても,全て消化するのに軽く1年を有する。関東近郊だけで,である。東北,北陸,中部まで広げてみたらもうパニックだ。さらには西日本,四国,九州,北海道…このままではいったいどれだけの未練を積み残してしまうのかと考えると,眩暈が止まらない。

どこかへ出掛けるのには,出発という静から動への加速力が求められるように思えるが,実際に自分にとって必要なのは,日常という高速道路から下道へ下りるという「減速の勇気」なのかもしれない。期待していた直近の長崎出張は流れてしまったが,こんなご時世なので未だ遠征をする気にはなれないので,とりあえずまずは次の出張が入るまで,週末は必ず日帰りの撮影旅行を入れるくらいの意気込みで予定を組んでみようと思う。社会情勢は相変わらず先が見えないが,自分の性格上,他人や社会に迷惑は掛けないよう,十二分の倍くらいは考えてしまうから,このくらい大胆な設定をしてみても恐らく問題は無いだろう。

しかし写真や記憶のストックが溜まったら溜まったで,今度は編集・整理が終わらないという別のパニック,そして眩暈に襲われるという顛末が目に見えている。堂々巡りである。つまるところ長い目で見れば,周期的に変動しているだけのことなのだ。幸か不幸か,「二項対立」は生涯終わりそうにない。

 

 

▼ 宜しければクリックのご協力をお願い致します。

にほんブログ村 写真ブログへ

にほんブログ村 写真ブログへにほんブログ村 写真ブログ 建物・街写真へ