梟の島 -叙情的叙景詩-

-叙情的叙景詩-

立ち止まらず,光を放つ。

 


 

どれだけ足掻いたところで,あの頃のように世界が輝いて見えることはもう二度と無いだろう。

死,時間,社会,環境,人間関係,これらを一つ残らず思考の外へと追いやり,記憶からも解放されることができない限り,あの頃の輝きを世界に求めることはできない。それができるのは一巡目の真っ只中に居る人間のみである。

遠い昔に「子供でありたい」と思った時点で,もう二度と子供では居られなくなってしまった。純心な強さを持ち合わせる子供は,そんな事に無頓着であり続けられるのだから。よほど純粋無垢な強さを持ち合わせていない限り,大人として柵の中で年を重ね始めると,その柵の格子が細かければ細かい分だけ,一巡目の終焉という宿命を掻い潜ることが出来なくなるものである。それは必然で,「老い」そのものであり,自然の摂理である。決して抗えないからこそ,心の中を吹く風が寒い。

僕自身,その寒さに人一倍強く打ちひしがれる性分であり,その鋭敏な感性こそが自分の魅力の一つだとすら思っている。そして,ただ打ちひしがれる繊細さだけではなく,それを自分という函数を通して表現したいという強い渇望も併せ持っている。そんな自分が虚しさに克つには「立ち止まらないこと」しかないのだと思う。人一倍頻繁に振り返り,人並み以上に未来から目を背けているが,それでも足だけは決して止めてはいけない。どれだけ心で号泣しようとも,立ち止まるよりは歩いている方がきっと渇望を満たせるし,自分の魅力を保つことができているという自覚(錯覚)ができて,幾らか幸福なのである。

 

同じような種類の虚しさを持て余し,虚しさに翻弄され,「未来」「明日」という言葉に悲観的になりやすい人,思考を止められない人,自暴自棄になる人は沢山いると思う。その弱さや暗さ,時には反対方向に振り切れた強さに,僕はずっと静かに,時には雄弁に寄り添っていたい。その空虚な心細さを味わってきた視点から推察するに,こちら側の人達は,簡単に同志と繋がることができない(若しくは,しようとしない)。永年繰り広げられてきた自らとの戦いに困憊してしまっている人も多い筈だ。幸か不幸か自分には未だ幾らか気力と体力があるから,自ら海原を泳ぎ,光を放ち,孤独を埋める旅をするという莫大なエネルギーを失った人達に向けて,この灯台から保安灯のような光を発し続けていたい。それを視認して,この岬まで近付いて来てくれても良いし,来なくても良い。ああ,自分と似た色の弱い光を放つ人がどうやら居るらしいと,そう感じて貰えればそれで充分である。それだけでこの発信という活動に意味を与える事ができて,僕自身としては報われるような思いがする。

必ずしも常に直接その方向だけを見据えているという訳ではないが,僕から発する光はそこへ届けたい。これが根底の願いである。たとえ来島者が居なかろうとも,通りすがりの誰かの爪に引っ掻かれようとも,余所の眩い光に目が眩んで失望しようとも,この姿勢は貫くつもりである。だから光を絶やさず,正しい光を発し,その光を少しでも(正しさを保ったまま)遠くへと届かせる,これらを常に心の底では考えているし,この先も迷いが生じた時は此処に立ち返るだろう。

 

そして,もし灯台のある岬まで来てくれる人が居たら…。能動的な強者として味わう孤独と虚しさにまで寄り添ってくれるというのであれば,僕はあなたを,島の全体が見渡せる大木の洞まで案内したいと思う。きっとあなたにとって,それなりに面白い暇潰しになるのではないだろうか…そう信じている。

 

 

 

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