梟の島

-追想の為の記録-

「旅」が出来なくなってから。

 

「旅」が出来なくなって久しい。

撮りたいという欲求だけが,昔日の残滓として心を浮遊している。

 

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本当に心から好きだったものは,鉄道旅行だった。撮る事,乗る事の両方が目的だった。幼少期に憧れ,老い先の短くなっている国鉄型の車両への愛着を入口に,鉄道文化が最も華やかだった時代そのものへの憧憬を抱いた。当たり前のように活躍する国鉄型車両,東日本に残る客車の夜行列車は,一瞬にして己を幼年期の向こう,懐旧の夢へと連れて行ってくれた。

あの頃は,宿泊を伴う旅は年に3回程度だった。行動への制約も大して無かったし,もっと必死になれば,見るべき古いものは当時はまだ幾らでもあった。しかし己を突き動かす必然性のあるものだけを自然に選び,必然性のある遠征しかしていなかったから,悔恨の念は一切無い。日常として彼らが今日も存在しているという事実が己を安心させてくれていた。会いに行きたくなったら,そこに居る。時間軸を共有しているだけでも十分だった。

幾つかの原体験が,旅とは夜行列車で東京を発つ,もしくは東京に帰る,時間軸の遡上を主目的としたものであるという切実な必要十分条件を己の中に形成した。その道中,全ての人間関係を含む憂鬱な日常は己と遮断された。SNSなど以ての外である。土産を買って帰るなどという事も決して有り得なかった。それらと徹底的に縣絶されていなければ,旅ではなかった。

2014年3月,寝台特急あけぼの号,定期運行終了。

この出来事が明確に,時間軸の遡上という夢に架かる梯子を外すこととなった。

あけぼのの定期列車(その後1年間は臨時列車として季節限定で運行していたため,このように記す必要がある)は,運行終了の3日前,上り列車で青森から上野への帰路に乗車した。思い返せば6泊という,今では考え難い旅路の最終日だった。青森に次いで新青森駅を発った車内のスピーカーに腕を伸ばし,ハイケンスのセレナーデのオルゴールで始まる車内放送を録音した。運行終了間際に期間限定で行われた車内販売で,弁当などを買い,奥羽本線の車中で食した。対面に乗っていた能代在住の初老の男性には,あけぼの号の思い出話を伺った。大館ではデッキに出て,大好きな「ハチ公物語」の発車メロディーを聴いた。

その後は南下する列車の中,想起された感情を一つ一つルーズリーフに書き留めていった。車内灯の落ちた通路の小さな座席を出して座り,並走するトラックの尾灯を眺めた。羽越本線の車窓は雨に滲んでいた。車中を一通り撮影し,村上から高崎まで4時間ほど,B寝台の上段で眠った。

薄明を揺られる。客車寝台の振動は軽快で,日中はあれほど長く感じられる高崎線も,あっという間に駆け抜けた。そしてとうとう大宮を発ち,上野まであと一駅という所まで来たところで,ついに我慢していた涙が零れ,止まらなくなった。いよいよ本当に,戻れないところまで来てしまった。時間軸の無常に押し潰されそうだった。あらゆる手段で抗いたい,そんな子供じみた事すら思った。しかしそんな己を乗せ,列車は通勤列車に追われながら決然と東北本線を走り続け,6時58分,定刻で終着駅へと滑り込んだ。

13番ホームに呆然と佇み,EF64 1031(廃車回送を牽引する事が多く,界隈では「死神」という不名誉な愛称を持つ機関車だった)に推進回送される客車列車を,腫れた目で見送る。疲労を携え,客の疎らな下り列車で家路に就く。夜行列車の翌日に迎える東京の朝の街は,いつもよりも白く眩しく見えた。

きっとこれが,本当の意味での最後の「旅」だった。

その3日後,定期運行の最終列車は旧友と共に上越国境で見送った。土樽駅で一夜を明かした翌日の帰路の虚ろな感覚は,後から思えば青春との訣別という,大きすぎる喪失感だった。

 

 

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廃墟にも行った。その動機は,きっと自己破壊衝動の一種だった。勿論,其処に美しさを見出していたし,写真という軸で鉄道趣味とも連続していたし,退廃美にカタルシスを求めていたと思うが,心の必然性は「何かあったらお終いな所」に身を置く行為を欲していたことにあった(所謂「スリル」という物と身体的にどう切り分けられるものなのか,今一つ明確にならないのだが,精神的には別物である)。特に2014年以降は,時間軸の遡上を諦めなければならなくなった自分と,現代社会と時の速度を共有しなくなった空間との間に,強く響き合うものがあった。幾つかの廃校の教室で流した涙は,その心の共鳴に因るものだった。

2017年2月,化女沼レジャーランド公式見学会。この日が最後の開催と言われていた。奇跡的に前日にその存在を知り,無理を言って急遽参加させていただいた。往路の東北新幹線の車中,まるで危篤の友人の見舞いに行くような感情になったのを良く覚えている。強い風の吹き荒れる中,誰もが知る聖地を,日没を少し過ぎるまで夢中で撮り続けた。冬晴れはあまりにも潔くて清らかで,冷たく乾き切っていた。心に吹く風もまた冷たかった。斜陽は終焉の文脈を二重にも三重にも彩った。金色の観覧車を眺め,きっと廃墟と対峙するにあたり,これを上回る経験は二度と出来ないだろうと感じた。夕空を行く飛行機と雁の群れを見上げ,今日という日が聖地のみならず,己に対するピリオドとしての意義もあるのだと悟った。いよいよ博論執筆に向け,社会性を背負う覚悟を決めなければならない時期と重なっていたこともあり,モラトリアムはこれで終わりにするという強い意志が己の中にはたらいた。

こうしてまた一つ,心の拠り所と訣別することとなった。

 

 

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建築には,早々に義務感を持って接してしまうようになっていた。建築学専攻の人間として,歴史系ではなく構法系・構造系ではあるものの,古い建築物を相手にして生きてゆく道を選んだ。そのために,興味関心の対象として見る以上に,教養として持ち合わせておかなければならないという重圧や責任,更に言い換えれば強迫観念に似たようなものを,常に心の奥底に抱いて接してきた。正直なところ,名のある建築に接して楽しかったことは一度も無いと言っていい。

それでも感性に訴えかけてきたものについて思い返してみると,北九州の上野海運ビルについて触れる必要がありそうだ。たとえば看板建築や学校建築など,外観の意匠が好きな建物は幾つも有るのだが,内部空間に心の底から感嘆し,愛情を抱いた現役の建築は,ただこの一例のみと言っても良いだろう。豊かで,繊細で,気高くて,親しみやすい。そんな一切の形容が不要なほど,ただ美しい。気付けば吹き抜けという大空間を「穴の開くほど」眺めていた。2016年夏,一目惚れの記憶である。

何処かでまたあの夏の日のように,心を撃ち抜かれる存在に出会えたら嬉しいとは思うが,正直なところ期待はしていない。きっと「初恋」をしてしまった以上,二度とそれを越えることは出来ないのだろう。

 

 

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工場夜景も愛していた。2013年,2014年の室蘭をはじめ,記憶に残る夜は多く存在している。それに臨むメンタリティとしては,「何かあったらお終い」に準ずる場所へ赴くという点において,少しだけ廃墟に類似していたが,己にとって最も精神の必然性を要しない被写体であり,何故これを撮りたいと思うのか,当時の自分にはあまり良く分かっていなかった。しかし後から振り返ってみると,撮影としては言語的理解を捨て去り,徹底的に感覚器に振り切るという点で,建築とまるで正反対の見方であり,その点において日常からの脱却という意義を有していた。其処にあるのは形と光と色の美しさ,そしてそれらが構造美であるという必要最小限の文脈のみだった。理解への重圧,行為への配慮,罪悪感,時間軸への焦燥などから完全に逃避できるという点で,撮影はひたすらに享楽的だった。

しかし被写体数の少なさも相俟って,モチベーションはそう長くは続かなかった。また四日市や室蘭などの「消灯」に,工場も決して時間軸と切り離された悠久の存在ではないという事実を突き付けられ,その享楽性が失われていったというのも大きい。未練として心に燻るのは未踏の和歌山くらいだが,それすらも被写体としてのタイムリミットが迫りつつある。果たして己は来年度,一体どう行動するのだろう。

 

 

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きちんと街を撮り歩き始めたのは2015年だった。川崎の小向マーケットをきっかけとして,木造アーケードや商店街,或いは歓楽街を中心に巡った。初めは廃墟と連続的にその美しさを捉えていたが,程無くしてそれが日常の営みの中にあることの魅力に気付かされた。鉄道趣味で言うところの静態保存でも動態保存でもなく,其処には「現役」という至高の文脈が存在していた。鉄道趣味で失い,廃墟では見付けることの出来なかった,一度外れた時間軸の遡上のための梯子が,辛うじて残っているように感じられた。そしてこれが,一連の写真趣味における己にとっての最後の砦であることを,早々に自覚していた。

 

 

しかしそれも,いよいよ長続きはしないようである。モラトリアムを抜け,最後の悪足掻きとして,好きな地方の解像度を上げるべく執拗に巡ってはみたものの,やはりその必然性が不足していた。点的な探訪先で時間軸の亜空間に身を置き,焦慮を消費し,夕刻の美しさに救済される。快楽の種類としては様々な点において刹那的であると,そう断罪せざるを得ないのだ。何処へも行かないよりは遥かに良いのだが,あくまで消極的選択であり,落穂拾い・暇潰しの域を出ることができない。何かからの逃避としても,やはり必然性が不足している。渇望に依拠していないのである。わざわざ東海以西に足を伸ばす動機が心の何処にも存在していない,そんな行為に対し自らの心を偽ることは出来ない。

ここまで己を取り囲んできた東日本,特に嘗ての「旅」の道中に在った街にはせめて未練を残さぬよう,収集癖のような感情に火を灯し,一つ一つ白地図を塗り潰してゆく。遠方の出張があれば,折角だからその辺りで触れておきたいものに触れ,好奇心のみを携えた撮影行為で,日常的な言語思考を回避する。今はもう,これくらいのこと―「不必要」かもしれないこと―しか出来ないのである。

 

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こうして被写体としてきたものを振り返ってみると,結局「旅」などというものはかれこれ十年近く出来ておらず,せいぜい撮影の合間に時折,昔日に重なる懐旧的な寂しさを虫干しして嗜む程度のものである。Twitterでも「旅」に関する議論が紛糾することが多いが,己自身それに参加する資格をとうの昔に失っている。

ここ数年でSNSでは「街歩き」が大衆化したし,自分もその一端を少しだけ担ってきたとは思う。確かに今,自分は街を被写体として扱う機会が多くなっているが,こうして遍歴を纏めてみれば,それが決して己にとって絶対的な存在ではないことが,改めて客観的にも見て取れるだろう。そして勿論,被写体に相対するメンタリティも,多くの人とは異なっている筈である。それは当然ながら発信という行動にも差異を与えている。地名だけのツイートを殆どしないのは,大切な対象物が破壊や盗難に遭わぬよう,物件名を決して公開しない廃墟趣味が先行して存在していたというのが理由の一つである。建築物の紹介は,よほど精神が良い状態にない限り,仕事に近すぎて書く気が起きない。宿や喫茶店や食事の時間を大切にされている方が多い中,自分はそれらの時間を持て余し,特に後年振り返ってから自責に駆られてしまう。こうした一つ一つの差異の最も根源的な理由は,己の行為が言語的に操作された必然性のないものであり,己にとって不必要かもしれないものである,という点にあるだろう。自分と似た雰囲気を感じる人も居なくはないが,いずれも各々の経緯で「周回数の重なっ(てしまっ)た人」のように思われる。

 

一巡目の心で街を歩き,旅をする若者たちが,目に眩しすぎて痛い。

執着なく感性と言語を扱い,愛好を淡々と続けられる先輩方が,逞しすぎて恐ろしい。

もう己には,本心から「やらなければならない事」も「行かなければならない場所」も,残っていないのである。長く続いた夢,そして無理矢理設けたアディショナルタイムも,間もなく終焉を迎えようとしている。或いはもうとっくに審判の笛は鳴ったのに,聴こえないふりをしているだけなのかもしれない。抗えぬものを静かに受け入れ,新たなる海に漕ぎ出す日が,いよいよ迫りつつあるのかもしれない。

その水平線の遥か彼方には,命のタイム・リミットに突き動かされるという最後の必然性を携えた,新たなる「旅」が宿命的に待っているのだろうか。

待っていて欲しいような,欲しくないような。

 

 

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