梟の島 -叙情的叙景詩-

-叙情的叙景詩-

フクロウの解剖(1):撮影という行為について。

 


 

写真には,その人そのものが直接的に滲み出るものだとつくづく思う。

 A.いつ,どこに行ったのか

 B.そこで何を見たのか

 C.それをどのように見たのか

たった3つの条件であるが,このベン図の中心に,複数人が存在することは絶対に出来ないのだ。

 

ネットの海には,A・Bにより「村」が形成されている。まずは「ジャンル」に同胞を求めるのはごく自然な行動であろう。僕自身もそのようにして今のアカウントで活動してきた。旅・街歩きの村,廃墟愛好家の村,古いもの好きの村,鉄道愛好家の村などが僕の近所にはあるし,それらはもう一つ上の次元で「写真の村」,あるいは更にもう一つ上で「どこかに出掛けて何かを見たい人の村」としても括る事ができるだろう。

しかし今日ここで詳述したいのは「C」についてである。この条件により個性が強く顕現する訳で,ベン図の丸が圧倒的に小さいのも当然ながらCである(どれだけ珍奇なA・Bを選んだとしても,である)。どれだけ涼しい顔をしていても,人はみなCなくして写真を撮ることが出来ない,或いは「撮らないこと」もできない。

そして不思議なもので,Cが似てさえいれば,たとえ違うA・Bを基に活動していたとしても,互いに感じるものがあるから面白い。それは僕自身がCを最も重要視しているからであり,それに共鳴する人も恐らくはCへの意識が強いのだろう。

Cは大別すると,自覚的な思想・主義の成分と,無自覚的な感性の成分により構成されている。特に前者には「イズム」などという言葉が充てられたりする。「イズム」をひけらかすのを美徳としない向きもあるが,感性の成分と正しく調和していれば,それを醜いと感じる事など,少なくとも自分には有り得ない(孤独を愛好し,大衆に対し斜に構える癖もあるが,個を礼讃する心は人一倍強い自負がある)。開陳することは美しさを損なう行為ではなくむしろ高めるものであり,他者の理解を深める結果にも繋がるのであれば,それは実に素晴らしいものではないかと思う。何かを「公共空間」であるSNSに投稿している時点で,何かしらを承認されたい欲求が心の奥底で沸点に達しているのは自明である。それを糊塗するようにしらじらしく振る舞うのは,或いは人間の可愛げでもあるが,それを可愛いと感じる思考ができるのであれば,イズムの開陳もまた然りであろう。それならばいっそ曝してしまった方が,自分にとっては全ての為になるように思うのだ。

また僕自身,誰かのそれに期待している。そしてそういったものに触れるにつけ,「美しい」「尊い」「好き」という,好意的な感情に満たされるのである。どれだけ深い孤独の中で思考と行動を積み上げていても,それを理解されたいという化物ののような渇望が心の奥底に存在している,その事実こそがその人を人間たらしめているように感じるからなのだろう。思考・行動,そして渇望。二つの櫂を両の手に携えてSNSの海原へ漕ぎ出した人々の邂逅。空から瞰下してみると,それは何とも美しく尊い情景である。

 

さて,アナクロ・フクロウの「C」とは何なのか。僕からしてみれば,日頃からヌテラ状のそれを写真やキャプションに塗りたくってあるのだが,今日は敢えて自らを「解剖」し明文化してみようと思う。

 

(1) 見たままの空気感を記録したい

撮影という行為は目的の一部になり得る,それはとても楽しいものである。しかしシャッターを切ったその瞬間から,写真は須らく記憶のトリガーとしての位置付けになる。だからこそ,現地で感じた空気感を写真の中に保存して,後から見返した自分が,または見て下さる他者が正しく追体験できるように記録しておきたい。

常々言っていることであるが,視覚,知覚に忠実に記録したい。露出も,ホワイトバランスも,なるべく肉眼で見たままを狙いたい。「盛る」「魅せる」「演出」なんて自分にはもってのほかである。

 

(2) 空気感に相応しい構図で撮りたい

(1)に続く内容であるが,トリガーの質は良いに越したことは無い。自分の腕の無さにより,逆方向に「盛る」ような事があっては,あまりにも悲しすぎる。自分の思う被写体の魅力を,正しく構図の中に残しておきたい。

全景にオーラを感じれば広角,ディテールに空気感があれば寄るし,雑然とした魅力を感じたならば望遠側で圧縮効果をつける…といった具合に,現地で感じた被写体・空間の魅力に対して,最適な構図を選んで記録したい。構図の端正さはもちろん必要だが,それを必ずしも第一義に据えてはいないという事である。また余談だが,切り取り方について,空気感をパッケージングする際に邪魔になる物を構図の外へ追いやる行為は,自分の中で真実の範疇を出ないものと考えている。

現地での時間が逼迫しているとなかなか難しいのだが,撮影の語彙の少なさが課題である。しかし不自然な構図を選ぼうとする行為は知覚そのものを歪めかねないので,決してそこは引き摺られないよう,撮る前提ではなく「ものを良く見て,自分が何に魅力を感じているのか,対話すること」を心掛けている。その結果として新たな語彙が浮かんで来れば何より嬉しい。

 

(3) 振り返ることを現地では想定しない

目的は記憶のトリガーであるが,実際に振り返る行為そのものは,決して撮影時には想定しない。そういう打算は,決してしてはならないと決めている。

たとえば,スマホサイズの画面で見る・見られる想定をして撮影している訳ではない。これは意図においても然り,あるいは機材の面においても未だにレフ機でファインダーを覗いているので,右手の人差し指がボタンを押し込む瞬間まで,あくまで液晶ではなく被写体を見ている。この微妙なズレにより,SNSのTL上で写真がよく埋没してしまう印象がある。実際,スマホで見返して自分でもあまり上手くない写真だったかなと思っても,PCの画面では良く成立していて,トリガーとしては十分に合格点,なんてことも屡々である。

記憶を振り返るのは,スワイプする刹那ではなく,もっと時間的な長さを必要とする行為である。スマホでもPCのディスプレイでも構わないとは思うのだが,手を止めて,写真の四辺を自分の視界の外に持ってゆくように,現地に身を置くように想像してゆく。そんな見方-記憶への没入-をした時に,初めて自分の写真は魅力を持つのではないだろうか。少なくとも自分ではそう思っているし,その没入のためには,やはりディスプレイサイズは大きいに越したことは無いとは思う。

また旅先では,記憶が定着するまでの時間,記録に上書きされないように,撮影した写真をあまり見ないようにもしている。最低限の確認・整理をする以外,仕上げは帰宅後に,固まった記憶と照合しながら行うようにしている。

 

(4) 表面的な自我は消したい

撮影者である自分の存在を,基本的には写真の中に表したくない。あくまでそれはファインダーの手前側にある存在で,向こう側にはないのだから,それが写り込むのはおかしな話であると考える。自己表現をゼロにすることこそが究極の自己表現,とでも言おうか。人生の文脈とA・Bの兼ね合いでその場所に至りその景色を知覚した,それこそが自分の表現したいことであるから,プロダクトという写真の「中」で何かをしようとは思わない。

他者の産物(特にポストプロセス)に対して思う事が無い訳ではないが,そもそもの「C」が人によって異なるので,自分の理想と別物になるのは至極当然のことだと思っているし,その多様性をほどほどに楽しんでいる。ただし唯一,キャプション等であたかも自分が知覚したもののように,或いは客観的な事実のように写真を紹介しておきながら,そこに不要・過剰な演出を認めた時には,決して声には出さないが「嘘つき」と心の中で呟いてしまう。それだけは,自分が真実としての世界を愛している以上,仕方のないことと諦めている(あくまで表現活動・行為に対する敬意は最大限に持った上での侵入思考的なものである点は,くれぐれも誤解しないでいただきたい)。

 

(5) 「重さ」だけは乗せたい

自分自身の時間も,被写体の時間も,一方向に流れてゆくのみで,二度と戻っては来ない。大抵は被写体の方が自分よりも長い年月を経た物であるが,自分と「もの」がそれぞれ持つ二本の時間軸が一点に交わる事の意味と価値を最重要視しているからこそ,自分の足で何処かへ赴き,何かを見て,自分の心で何かを感じたいのである。その「重さ」だけは,通奏低音として写真の中で響かせていたい。だから,1枚1枚の写真の中で何かを表現するのではなく,同一の場所での複数枚に,或いは日も所もジャンルをも越えた複数枚の写真たちの中に,その重さを通底させていたい。それを表現というのであれば,僕が表現したいことはこの重さだけである。

 

廃墟はそのノスタルジックな尊さを表現するに相応しい,敢えて棘のある言葉を選べば「手っ取り早い」被写体である。足を運び現地で実際に体感したその空気感は,いずれもあくまで非日常的なものであった。弛緩と快感の要素は,あくまで緊張の先にのみ存在するもので,僕はそこに僅かな違和感をおぼえた。極めて強烈で刺激的で,ノスタルジックではあるが,そこに自分にとってのノスタルジーは本当に存在しているのだろうかと自問した結果,被写体の中心が徐々にsemi-abandonedなものへとシフトしてきた。どうやら自分はもう少し日常に近い,生活に近いところで,この「重さ」を感じていたいらしいのだ。街や商店街,鉄道などの尊さを,そこに日常が息衝いていることに見出しているのである。このあたりは,もしこの「解剖」シリーズに続編として「被写体編」のようなものがあれば,またそこで日を改めて分析してみたい。

 

「思慮深く内省的で,被写体への優しさと愛着に満ちた,丁寧だけれども人間的な未熟さが微かに残る,没入するに足る自然な写真。」

目指しているものと生み出しているものがどの程度きちんと整合しているか,自分には分からないが,自己評価では80~85点は取れているつもりである。これからもさらなる高みを目指してゆきたいが,撮影の際には余計な思考を挟まず,あくまで「もの」との対話を深めることだけを心掛けてゆきたい。

きっと「近所」に居て下さる方は,A・Bのみでなく似たCを持っていたり,或いは僕のCに少しばかりの魅力を感じてくれていたりするのではないだろうか…と,そう信じている。折角ならばその目指すところを具体的に理解した上でご覧頂けると,また少しだけ違った見え方になってくるのではないか,そんな事に期待して,今回は珍しく他者に向けた文章をしたためてみた次第である。

少しでも反応してもらえたら嬉しいな,なんて,素直な気持ちも最後に書き添えてみたりして。

 

 

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