梟の島

-追想の為の記録-

「海をゆく梟」

 

「大いなる海へと 何が駆り立てるのか」

 


 

 

或る日曜日の朝。

 

先客のある隣室と鍵が取り違えられていたせいで,施錠は大した意味を為さず,心も休まらなかったが,前夜は35kmを歩いた身体にハイボール2缶と日本酒を流し込んでいたのでそのまま寝落ちして,4時前に目覚めると電気もTVも点いていた。携帯の充電を2台目に繋ぎ替えて再び眠るも,そこからは細切れに目が覚めた。アラームの鳴る10分前,6時ちょうどに起床。ゆっくり着替えて支度をし,2台の愛機だけを連れて宿を出た。戸建住宅のような扉を開けると,いきなり冬の未明がそこにあった。

まだ撮影には早すぎる往路だったが,海岸に着くとちょうど,濃灰色の朝が始まろうとしていた。釣客が1人,犬の散歩の方が1人。小さな温泉街の旅館の前では,観光バスが眠たそうに白煙を排気していた。

 

 


 

廃業した旅館の建物の脇から浜に下りると,砂の粒が大きく,靴底から摩擦でグイグイと軋む音がした。浜は暗褐色で,時間帯も相俟ってかなり溟い印象を与えた。

直江津方面の景色が良く開けていて,上越火力発電所,さらにその奥の白い頚城山塊がはっきりと見えた。ちょうど2013年の末,米山~笠島,聖ヶ鼻の撮影地から俯瞰した日のことが思い出された。海岸線の北端に光るのは鳥ヶ首岬灯台だろう。この付近の国道8号線は,元日の地震による土砂崩れにより暫く通行止が続いていたが,工事が早まったらしく,この日の時点で作業が完了し往来可能になっていたようである。しかし並走する自転車歩行者道は未だ通れないらしい。復旧の日は訪れるのだろうか。1年前に歩いた記憶を反芻しながら,点滅する遠い光を眺めた。

先人の痕跡の無いまっさらな砂浜を歩くと,案外凹凸が激しく,深く堆積しているところでは足を取られそうになった。振り返ると,曲がりくねった深い足跡がとても汚ならしくて,自責の感情が去来した。

砂の急斜面を上ると,ボトルコンテナに流木とおぼしき丸太を括り付けただけの,簡素なベンチがあった。いつかここに座って,ぼんやり一日を過ごしてみたいと思った。

 

 


 

夕日の森展望台に上る朝。東に,雪化粧した米山が大きく見えた。存在感のある堂々とした山容に,いつも感心させられる。

動画を回したり,浜を無為に歩いたりしたから,朝食の時間が迫りつつあった。温泉街を抜けつつ宿に戻る。旅館の前で,3人の明るい雰囲気の女性従業員が,手を振って宿を発つバスを見送っていたのが印象に残った。まだ朝7時半すぎだというのに出発する客,大きな声で朗らかにお見送りして,キャッキャと喋りながら下駄をカコカコ鳴らして館内に戻る従業員たち。寂しい冬景色に似合わぬくらいエネルギーに満ちた一幕に,小さな疎外感をおぼえた。

 

 


 

宿に戻り,宿泊棟の隣の割烹で朝食を頂いた。温泉玉子と生卵が両方あったのには少し驚いた。ふりかけの小さな袋を白米に開けると,研究室時代にお世話になっていた酒屋の弁当,さらに遠い昔,食事があまり速くなかった幼少期によく食べていた「のりたま」の記憶が蘇ってきて,それだけで少し寂しくなった。記憶が脳の傷ならば,記憶力の良さは傷の治りの遅さで,それによる苦しさは傷の深さである。きっと己は傷の治りが悪く,痛みにも強くないのだろうと思った。

 


 

荷物を纏めて,いよいよ宿を発つ。

先程と同じ温泉街へ抜け,海岸のバス停へ。雨が降り始めたので傘を差した。若い女性が1人,何も持たずに海岸へと歩いていった。地元の方なのか宿泊客なのかは判らないが,いずれにしても珍しいように思った。無用な警戒をされぬよう,距離を取って歩いた。

この地には人魚の伝説が残り,今では小さな観光資源のように扱われている。バス停の脇を抜けて海に出てみると,人魚像がある筈なのだが,冬の波浪のため撤去されているとのことで,台座だけが無感情に残されていた。そのまま東へ海岸線を歩いたが,途中で道がなくなったので,冬場だから容易にできる軽い藪漕ぎをして車道に戻った。程なくして再び道を外れ,人魚塚伝説の碑に着いた。ようやくその内容に触れる事ができた。掲示板の内容を掻い摘むと,対岸の佐渡から常夜灯を頼りに渡ってくる美しい女が居り,雁子浜のある若者はその女と毎夜逢瀬を交わしていたが,親と親の許しあった仲の別の娘が居た。ある晩親に引き留められ,常夜灯を消して家にいた。すると翌朝,浜には佐渡の女の屍体が打ちあがっていた。後悔と自責に,若者も後を追うようにして海に身を投げ,彼らを哀れに思った村人が常夜灯の近くに比翼塚を建て,これがいつしか人魚塚と言われるようになった,という内容であった。諏訪湖の対岸から男の点す篝火を頼りに女が泳いで渡る「火ともし山」という,似た昔話のことを思い出した。

笹の中にある酷く凹凸のある道を東に進もうと試みたものの,眺望が殆ど無いので折り返し,結局は海岸線に引き戻された。ここから続くのは浜崖の縁のような道で,高低差は大したことないとはいえ,落ちそう,もしくは崩れそうな足元に少しだけ緊張した。雁子浜公園で舗装道に戻った。そのうち雨は上がったが,薄暗い曇天が続いた。対岸の佐渡は霞んで見えなかった。

 

 


 

直江津からタンカーが出港していった。あれだけの巨体が浮かぶようにして,錯覚のような緩いスピードで水面を滑ってゆく。撮影してみても合成写真のような違和感があった。

ところで,先述した2013年12月の記憶が,この辺りを訪れるにあたっての一つの基準になっている。あの頃に被写体としていた鉄道車両たちー485系,115系,EF81ーは,みな姿を消して久しい。この場所に限らず,街並みを構成する要素は更新されてゆき,魅力的で手の込んだものも失われたり変容したりしてゆく。全て必然の流れの中にある。しかしどうして消えゆくものばかりを好きになるのだろうと,改めて悲しくなった。だからもう,山とか海とか自然とか,失くならないものを好きになりたいと思った。自分自身も有限なので,それより長く在り続けるものを愛せたらどれだけ幸せだろうかと思った。

 

 


 

1日を通じて,海岸には釣客がとても多かった。マリンホテル ハマナスのあたりでは舗装道が海岸に近付くのだが,特にここの駐車車両が多く感じた。恐らく釣りの界隈の中ではある程度定番化している場所の一つなのだろう(界隈の中でどれほど専門が細分化されているのかは判らない)。それゆえに,なかなか独りになれない時間も存在して,少しだけ彼らが憎らしくなったりもした。打ち棄てられたような景色の構成要素たちには目もくれず,悲愴の色を呈した海に機械的な運動の一貫として竿を垂らす彼らに,何か感性の断絶を感じてしまった。だからこそ,独りになれる場所では孤独を徹底して謳歌しようと思えた。

海上には暗雲が点在し,その下には黒い霧が,溟く変色した水平線に繋がっていて,嵐の訪れを予感させた。しかし今日の雲は西から東ではなく,どちらかと言えば北から南に流れていたのか,暗雲は海岸線と一定程度の距離を保ち続けていた。

暫く己と並走を続けているように見えたタンカーは,やがて沖合へと消えていった。

 

 


 

歪んだ表情を見せる日本海に夢中になり,なかなか歩が進まず,午前中は余裕があると思っていたのに,気付けばあと75分で4.8kmを歩かなければ柿崎で予定の列車に乗れない状況になっていた。余裕というものは,あったらあったで何処かで余計に食い潰すだけなので,いつだって時間はぎりぎりになるものである。もう1時間ほど遅い列車に変更する選択も頭をよぎったが,此処から先はあまり「本題」ではないと判断し,先を急ぐことに決めた。柿崎犀潟線を歩き,三ツ屋浜で再び海に出て,上下浜の駅の付近には寄らず,このまままっすぐ柿崎へ向かうことにした。地図に表記の無い浜辺の道が光徳寺の裏手まで続いているようだったので,こちらを選択すると,これが予想外に素晴らしかった。砂の粒子はいつしか細かくなり,暗褐色の粘土(クレイ,という単語が現地では頭に先に浮かんだ)のようだった。

 

 


 

閑散とした自動車教習所では,一台の車がクランクに挑んでいた。その脇を通り,柿崎漁港を少しだけ覗いて(ハマナスの群生地らしいが,この季節には関係が無い),早足で駅へ向かった。三ツ屋浜では雨に見舞われたが,比較的早く止んでくれたので助かった。川を渡ると昨夏に見たばかりの景色が迎えてくれた。列車の3分前に柿崎駅に到着。まだ半年も経っていないので,目に見えるもの全てが鮮明に懐かしかった。

 

 


 

列車はたった数分で,今日の出発地点である潟町に戻る。ややこしい話になるのだが,今日は柿崎~直江津を歩く予定で,まず宿のある潟町から柿崎へ東向きに歩き,列車で潟町に戻り,潟町から今度は直江津へと歩く,という計画だった。小雨が降っていたし,先程までの1時間強を若干のオーバーペースで歩いたし,この先しばらく昼食の調達ができそうにないので,駅前のコンビニで小休憩をとった。やがて雨も弱まったので,のんびり出発し,朝の続きから,今度は西へ歩く。時間も充分にあるので,先を急がずたっぷり時間をかけることにした。

海岸沿いにある「海岸浸食目印石碑」は,海岸から少し防砂林に入ったところにあり,案内が無いので危うく通過しそうになった。想像していたものとは全く違った主旨のもので,大変興味深かった。それだけ海岸の浸食が進行していることに驚かされた。

以下は現地の掲示板からの引用。

この三本の柱は大潟区の海岸浸食が進み、塩田があった頃の面影が随分前から見て取れない状況を危惧した潟町地区の青年団が、昭和23年に当時海岸汀線から100mの地点に石碑(向かって左側)を設置したものである。

その後も海岸浸食は進み、それより約50年後の平成7年に約35m浸食された観測記録として当時の青年会有志により二本目の石碑が設置されました。

更にそれより20年後の平成27年8月に市の地域活動支援事業を活用し、向かって右側の石碑を新たに設置したものである。

この約20年間は殆んど浸食は留まっている。石碑を見て海岸浸食の重要性を多くの人から認識して戴ければと思います。

 

 


 

大潟キャンプ場までは浜辺を歩き,その後,土底浜交差点までは舗装道を歩いた。上越妙高駅行のバスが走り去っていった。土底浜の交差点の周辺は飲食店もあり,しっかりとした「街」だった。此処からは再び海の引力に身を委ねる。土底浜古屋敷海岸公園の掲示で,空撮に現れる馬蹄形の模様が,嘗ての屋敷のために人為的に造成されたものと知り,驚嘆した。

 

 


 

大潟キャンプ場の方を眺めるべく公園から北に抜けてみると,此処でとうとうこの2日間で最も印象に深く刻まれる空間に出会った。一面の枯草が,キツネの毛並みのように,風に薙ぎ倒されたように靡いたまま,ぴたりと座標に固着していた。ミクロに見れば微かに動いているのだが,振動という言葉は適切ではなく,微動とか,揺曳とか,そんな感じの運動であった。動きの無さが枯色の景色に死の印象を強く与えていた。その彼方では繰り返し波が押し寄せてきて,見えない崖の下から突き上げるような波濤の衝突音が低く轟き,時折遠くの波が逆巻くと,空気を切り裂く雷鳴の始まりような破裂音が静寂のさらに奥から聞こえてくる。景色の此方と彼方がまるでちぐはぐで,時間軸を共有できていないような,まるで何らかの精神世界に迷い込んだかのようで,気付けば呆然と佇み,ただ全身に鳥肌が立っていた。賽の河原を少し連想し,此処がついに「死に場所」なのかもしれない,などと思った。

この静的な死は五感によってのみ知覚しうるのもので,写真では絶対に記録できないと思い,スマホで動画を何本か撮影した後,いつか再訪する日のことを(たとえば吹雪の日にはどう見えるのだろうか,などと)想いながら,ふたたび海岸線を南西へ歩いていった。

 

 


 

先の風景にかなり心を強く揺さぶられた分,人里に戻る気は起きず,海岸を離れることが出来なかった。漂着物の堆積した道を歩くとコンクリートの防波堤が現れ,その向こうには消波ブロックが並んでいる。確か特徴的な種類の,テトラポッドでは無い名称があるやつである(帰京後に調べると「ディンプル」であった)。

正しい言葉を知ることは,世界へ向けた視線の解像力を高める行為であるが,そもそもその差異を知覚できなければ話にならない。例えばある空間の魅力を言語化するとして,己は一瞬間的に総体として捉えつつ,そこに鏤められた要素の具体をも同時に知覚する能力に長けていると自負している。大概において,景色に対する知覚を言語化しようとしても,言葉は追い付かないのである。体験という実践が先にあって,言語という理論が少し遅れてそれを裏打ちするというような順序が己の中にある。これが一般的な事なのかどうかも判らず,先のテトラポッドもどきが通常のテトラポッドとは異なるという認識を抱く事がどれほど珍奇な事なのかも判らないのだが,それだけ己のなかには体験と言語が絶えず相補的に両輪で働き続けているのである。

 

 


 

枯草が消え,海岸に石が増えてきたところで,浜から少し上がった道を歩くと,空撮に馬蹄形の線が残る場所にやって来た。ここも古屋敷の跡なのだろう。凹凸や形状を体感することができた。太古の昔から此処に人類の生活があり,それが少しずつ波に浸食されていっている。壮大なスケールの中に,引き摺り歩いている己の感情があまりにも小さく思えた。

 

 


 

そのまま海岸線を歩き,釣り人のいる大潟漁港を通過していった。此処から先は比較的単調な海岸が続くことが予想できていたので,今日のピークはもう越えたのだろうと察した。先の「死に場所」に出会えただけで,今日は充分のように思えた。あとは直江津まで歩ききるという実績を手に入れるのが,残された目標のようなものであった。

新堀川を渡り,大潟運動広場のあたりで海岸を一度離れ,久々に128号線沿いの人里に戻った。土底浜からおよそ1駅の間,海岸を歩き続けていた形になった。現代的な外壁を持つ住宅の並ぶ町を歩くと,程なくして犀潟駅に着いた。北越急行の車両が発車していった。駅舎の外観,待合室を撮影し,少しだけ休憩をとった。

ここから暫くは468号を歩いたが,標準的な住宅街であり,程々に古いものも点在しているが,被写体として目を引く存在は殆ど無かった。第一工業製薬の工場が唯一,印象的であった。

 

 


 

信光寺の堂宇を見学した後,裏道を抜け,海岸へ向かう。ここでとうとう陽射が差してきた。土底浜を歩いている頃から,西から少しずつ雲が晴れ,海がやや青を取り戻しつつあり,そのうち晴天に恵まれるのだろうという確証に近い予感があったが,いざ晴れてみると光は想像よりも目映かった。黒井突堤には数多の釣客が並んでいた。彼らに「立入禁止」の効力は無く,自己責任が規範になるらしい。この突堤まで来ればいよいよ,残りの海岸線は歩かなくても良いくらいのつもりでいたのだが,先程まで歩いていた468号沿いの景色も単調だったので,消去法的にこのまま海岸線をゆくことにした。上越火力発電所のプラントがいよいよ眼前に迫ってくると,早朝の展望台からの景色を思い出し,1日歩いてきた距離の長さを感じた(実際は潟町から柿崎にも歩いているので,もっと長く歩いている訳であるが)。このプラントが想像以上に大きく,南岸を歩き終えるまでに15分以上を要した。LNG基地を振り返りつつ,直江津港に並べられた小舟たちを,傾いた陽射の中で撮影していった。気付けば心の充足,安堵と共に,身体への疲労が蓄積していて,歩幅が狭く,呼吸が浅くなりつつあった。大声で歌い,疲労を吹き飛ばそうとしたが,腹筋の力が抜けていて,高音が思いどおりに出せなかった。合唱団時代に一つのキーワードだった「細い息」が,気管支を患ったこの数年でむしろ手に入ったような気がしていて,その意識を取り戻すことと呼吸のコントロールを心掛けると,やがてある程度思ったような声が出てくると共に,疲れが抜けていくような感じがした。道路の反対側のフェンスの上の,一羽のツグミだけが己の歌を聴いていた。

 

 


 

 

大いなる海へと己を駆り立てるのは何だろうか。歌を止めて自問した。この問いこそが,この2日間の主題であった。

答えはすんなり導き出された。破壊衝動と,抵抗。憧憬がいつしか腐敗してこれらに姿を変え,宿命への敗北を認める直前の残曛のように心に燃えているのだと解った。

あの日,憧れとともに旅をした日本海側の景色たちは,今も大きく変わることなく当時を思い起こさせてくれる。しかしもう,その憧憬そのものには指が掛からないこと,その先に未来が無いことを,自分は未だ認めたくなかった。それに対して強い未練が残っていた。あの時代との訣別こそが,この先の人生を,正しい選択の結果とともに歩む為には必要であると,日を追うごとにその意識が強まっていった。収集癖のような嗜好を触媒に,逆手にとって,本当に憧れた土地を「すべてくまなく」見ることで,それが達せられると考えた。己は今,訣別の為に過剰なまでに暴れている,その自覚を常に持ち続けてきた。その中でも特に,憧憬の対象であった土地たちとの訣別こそが最重要であった。己はまさに今,望んだとおり「敗北の途中」に居た。

そして,それが確かに達成されつつあることを,今回の2日間で初めて感じた。憧憬の対象の中の,未知の割合が随分と下がってきたこと,日常の充足,日常の中で孤独に苛まれる事が殆ど無くなったこと,これらが理由の大部分であろう。もう戻れないことを,頭だけでなく,感覚として自然に理解できてきたのか,執拗に繰り返した外出の成果か,苦痛を感じなくなりつつあった。もう,きっと大丈夫だと思った。

ただ,青年期の自我に直結している感情を行動によってひたすら痛めつけて潰そうとして,いざそれが達成されようとしていることが,とてつもなく寂しく感じられるのだった。

 

 


 

直江津には大きく分けて3つ,埋立地の工場群がある。その2つ目に差し掛かった頃,海岸線と道路の間に防砂林が入り,視界が狭まった。これでいよいよあとは「実績」の獲得を残すのみ,といった状況になった。依然として陽光は,雲に時折阻まれながらも,景色を暖色に染め上げていた。黒井駅方面への分岐をとうに越えてしまっていたので,そのまま海にもっとも近い道を歩いた。右に分岐する数少ない道はすべて関係者以外立入禁止だった。

 

 


 

パナマの国旗を掲げた大きな船をフェンス越しに眺めると,少しだけ乗ってみたいような気がした。最も西側の埋立地に差し掛かり,ここで一般道が左に折れ,まもなくして佐渡汽船の直江津港に着いた。カーフェリーの就航は未だ少し先のようなのだが,設備としては古く,どういった歴史があるのかきちんと調べ直さねばと思った(帰京後に調べると,佐渡汽船が赤字脱却のためにカーフェリーを売却したことで路線が廃止となったが,このたび中古を購入し,また補助金の投入もあり,来春に航路が復活する,という経緯のようであった)。トイレに寄った後,建物を近くで見ていると,どうやら5階に展望室があるということで,エレベーターで上がってみたが,汚れたガラス越しに,辛うじて眺望がある程度のもので,思ったような撮影は出来なかった。それでも夕陽に染まる山々,特に遠くに離れつつある雪化粧した米山と,南側に広がる山塊が,淡い桃色に輝いているのが見えた。散策の終着地である直江津駅の方面を見据え,再出発。水は既に飲み干してしまっていたが,この美しい夕刻を堪能すべくコンビニを通過し,関川に掛かる二つの橋を順に巡ると,低く千切れた雲の一部が橙に染まり,対岸の景色を艶やかに見せた。

 

 


 

河岸にラジコンカーを走らせて遊ぶ少年が居た。車種はGT-R NISMOだっただろうか。小さい頃,車は憧憬の対象であり,ラジコンもまた憧れの一部であった。市民体育館のピロティで,叔父のお下がりのラジコンで遊んだこと,クリスマスプレゼントに貰ったパジェロのラジコンカー,乾電池で走るポルシェのプラモデル,黄色いランサーの「デジQ」など,みな記憶は鮮明で,きっと生涯忘れることはないのだろう。寂寥に浸りながら見上げる淡い夕空は,遠い日々に固定された永劫の暖かさのようであった。しかしもう,涙は出そうになかった。

直江津橋で残照に染められた雲を撮り,17時ちょうどに発車する北越急行を見送ると,いよいよエピローグが始まった。橋を渡り終えると,先々月,雪の朝に歩いた道に繋がり,これで越後赤塚から浦本までの海岸線はすべて徒歩で繋がった。

この調子でゆくと,県内で最後に歩き抜く憧憬の土地は,遠い昔から,訪れたらそれが終わりになる,終わるために訪れる場所だと決めていた,あの海岸になるのだろう。

 

 


 

夕暮れが西の空に滞留していた。「コンパ」の路地が西向きなので,その桃色とともに撮影した。ひとひらの夕雲が濃橙色に燃えていたが,道路と方角が合わなかったのでファインダーから顔を外し,建物越しに肉眼で見送った。昨日に比べれば軽い散策になると予想していた2日目も,結局は30km超の大長編となり幕を閉じた。

 

 


 

コンビニで帰路のための水と酒を調達してから,夕飯処を見繕う。海鮮が主の定食屋が候補だったが,直前に営業していることを確認したレストラン ベニスもとても気になっていた(思えば12月も同じ葛藤をして,営業時間外だったので別の定食屋に行ったのだった)。結局は後者に決めた。階段を上がると,原色でデザインされた扉が愛らしく,その中にば木目調の美しい空間が広がっていた。未だ17時半なので先客は無く,店の入口近くの席に座り,ご主人に撮影の許可をいただいた。料理はどれも魅力的だったが,一番上にある看板メニューとおぼしき味噌カツ定食を選んだ。喫茶店のような落ち着いた,クラシカルな店内を撮影してから,身支度を整えていると,味噌カツはすぐに運ばれてきた。何ときれいな料理であろうか!そのスピードに驚かされ,見映えに感動し,味は文句無しに美味であった。疲弊した身体に沁み渡る優しさだった。

会計の前に女将さんに訊いてみると,お店は昭和44年から営業しているとのこと。「まだ生まれてないでしょう」と茶目っ気を込めて言われたので,「親がまだ子供時代ですね」と笑って答えた。こんなに素敵なお店が,古くから,大好きな街に在り続けていること,何から何まで満たされたように嬉しかった。SNS掲載の許可も頂き(「宜しくね」とまで言われてしまったので,帰京後にきちんと投稿した),最大級の充足とともに店を後にした。

 

 


 

時間が間に合えば乗ろうと思っていた,北越急行経由の帰路の列車に,ある程度の余裕をもって駅に到着した。ボックスシートを独占し,車中で写真を整理した。新潟に来る度に必ず購入する「風味爽快ニシテ」をロング缶で飲み,終盤は眠っていた。越後湯沢では往路同様,スキー客の大群衆に呑み込まれると,険しく歪んだ表情で海岸線を独り何十キロも歩いてきた自分の壊れようが,少しだけ愛らしく思われた。予定通り指定席車両のデッキに乗り,大宮までの50分を過ごした。トンネル区間では甲高いモーター音が反響して少々辛かったが,じきに慣れた。急速に日常に帰還してゆくのが不思議であった。いつの間にか新潟がとても(物理的に)近い存在に感じられるようになっていたのも,憧憬が相対化された結果の一つなのかもしれないと思った。

大宮から,いつも通りの乗継で帰宅した。約10万歩,全身全霊を注いで歩いた2日間だった。

 


 

歩いている道中,脳内で繰り返し流れていた曲を,最後に載せておく。

彼女たちのラスト・アルバムに収録された,2013年の楽曲である。

www.youtube.com

 

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