梟の島

梟の島 -叙情的叙景詩-

-叙情的叙景詩-

五能線キハ40,最後の秋(20):秋晴れの海岸にて。

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午後の光を浴びて。 20.10.31 五能線 十二湖~陸奥岩崎

 


2020年10月31日(土),秋の五能線を追い求める撮影行の2日目。早朝から陸奥柳田~越水の「山線」区間で数々の列車を撮影し,一気に大移動して小入川橋梁へ。

 

さて,今回はいつになく欲張る計画なので,この先も慌ただしい。撮影したばかりの2531Dを追い掛けて,十二湖~陸奥岩崎,ガンガラ穴の手前の入江で再び撮影する計画だ。数分の余裕を持って追い越せる予定だったのだが,大間越駅の南側のトンネルが工事中で,片側相互通行となっていた。そういえば先程ここを一度通過したのだが,うっかり失念していた。これによって2分ほどロスしてしまったが,それでも5分弱の余裕を持って,列車を先行することができた。ガンガラ穴への踏切を渡り,2台ほど停まっている車の横に駐車。すぐにカメラを持って磯に出ると,2人組の若い同業と,釣りの準備をしているグループが居た。同業に挨拶して,アングルを纏める。

先程の撮影では陽光がスポットライト状になってしまったが,既に太陽の周りの雲は消えており,光は申し分ない。構図の微調整をするときに難しいのが,非電化区間のサイド構図で列車の長さを的確に予想するということである。ここの場所に限って言えば,想像よりも列車は大きく見えるようなので,気持ち広めの画角で待ち受ける。

少々遅延気味だっただろうか。ようやく踏切の警報機が鳴った。

 

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列車は滑らかにファインダーの中を走り抜け,トンネルへと飛び込んでいった。

 

ここで昼食休憩。天気も良く,気温は随分と上がっている。折角だから象岩手前の磯に下りて,ピクニックをする。 駐車場には5~6台ほど車が居たが,視界には釣り人が2人ほど。残りは賽の河原にいる同業者の車ということだろうか。

 

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十二湖駅側に広がる海は優しく穏やかに青く澄み,遠い海岸線の木々は深緑色,白神山地はまさに盛秋で,赤褐色に色付いている。

 

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すぐ目の前では,入江の小さな波が磯の岩にぶつかって消えてゆき,引き波が心地よい音を奏でている。

 

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2人の釣り人以外,この大自然の中には見渡す限り誰もいない。

 

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晴れた秋空の下,寧日の昼下がり。波音一つ一つに,心に蓄積した滓が溶け出してゆくようだった。

 

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自然と触れることの大切さ,独りの時間の大切さなど,様々なことを改めて痛感した。

 

深浦で調達したパンとフライドチキンを食べ終わり,車に戻る。若めのカップルが象岩の方に歩いていった。岩を伝って陸に戻ると,親子連れとすれ違った。

自分には,幼少期の海の記憶というのは多くない。そのいずれも断片的で,大きな視野の絵の記憶に至ってはひとつも無いといってよい。こういったディテールの欠損こそが,自分につきまとう哀しさの正体なのかもしれないと,ふと思う。幸福な原体験があったとしても,その細部の記憶は決して後から復原することが出来ないのだ。帰りたい安寧の過去があったとしても,それはあくまで漠然とした雲のような,形のない夕焼け空のような,抽象的なものである。たとえ後年,何処か思い出の場所を再訪したとしても,そこで知覚できるものは原体験とは根本的に異質なもので,場合によっては何かを上書きして,原本を消してしまうことになるかもしれない。何をどう足掻いても,この哀しみに対しては本質的には何もしてやることができないのだ。それでも何かが出来るのではないか,何か遡上する術があるのではないかと探し周り,求めてしまう心というのは,決して消える事が無い。尤も,だからこそこれが哀しみなのだろう。そして,この終わりなき旅,逍遥の足跡を残し,それが誰かの足跡とも交錯する,そんな願いというのも,その根源的な欲求と同様に,決して尽きることがない。この旅というのはすなわち,失われた記憶の復元作業であり,抽象への挑戦なのだ(ここで建築学専攻の一博士として,「復元」と「復原」を明確に使い分けたことも注記しておく)。だからこそ,自分が言語を超越した何かを求めているのは必然的なことなのだ。これは自分にとって,充実とか安定とか,そういった次元のものではなく,もっと内側から,もっと底のほうから湧き出てくる,「渇望」である。そしてそれが決して尽きないということが,自分の「宿命」なのだ。そう捉え直すと,時間を少し冷静に使い過ぎているかもしれない。もう少し見苦しいくらい,足掻かなければならないのかもしれない。この自分がとり憑かれてしまった熱病と,それと共に生きなければならないという宿命のためには,この内在する抽象的な何かを具現化する努力をしなければならないのだろう。まずこうして一つ文章をしたためることは,これからも大前提として怠ってはならないし,ファインダーも絶えず覗きながら,何かを探さなければならない。そしてこれらにプラスして,例えば異なる手段を交えて(それが音なのか何なのかは未だ分からないが),もう一つの次元で,さらに上乗せした何かを生み出さなければならないような気がしている。いよいよそこを避けていてはこの先に行けないような,そんな気がしているのだ。

 

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その21(小入川橋梁,秋晴れのサイドビュー)へ続く。

 

 

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