梟の島

-追想の為の記録-

感覚器と言語の諍い。

 

言葉への愛着は,やはり第一義的ではない。

…と,言葉で書かなければならない。

己の知覚は相当に鋭敏,或いは拡散的であり,単位時間あたりの処理量はかなり多い(比較する術はないが,あくまで自己認識としてである)。また思考は脳の隅々まで縦横無尽に踊り狂っている。それらが相補的に編み上げられた脳内の多次元的な形成物を言語にわざわざ落とし込むのが,ひたすらに窮屈で面倒で,また言語にばかり一方的に有利な作業に感じられるのである。回りくどくて,取り繕われるのは外形と装飾ばかりで,本質ではない。仮に抽象を語るにしても,複雑な色に一つの名称しか宛がう事を許されないときに似た躊躇と反省が絶えず付き纏う。整合性の欠落や誤謬は罪だとすら思う。抽象はまだしも具体は問題外で,どれほど努力したところで精確性に欠けるし,何よりただただ冗長で,遅い。すなわち速度というパラメータに対する嘘が必然的に内包される。それなのに歳を重ねる毎に,言語を扱う為に検証すべき事項が山積してゆく(本業の設計と同じである)。無知は自由であり,知性とは拘束具である。しかしそもそも言語は参照される為にあるのだから,その正しさを追求する上で不自由があっても仕方がない。

昔から本も決して好きではない。外界から遮断された環境に身を置き,著者の眼を盗んで飛び跳ねたり,あるいはその意図にまんまと乗せられて走り回ったり感情的になったりできないと,文章への集中の糸は一瞬にして途切れる。言語思考の速度とは全く異なるディメンションで世界を知覚し,脳内はスパークしている。言語は日常であり,枷である。それから逃げるために何か非言語的なものに触れ,感覚器になりたいと願っている。言語化すると陳腐になるものこそ至高だと,心の奥底で言語の限界を常に意識している。本当はもっと,この正しさと清さを携えたまま,速く,遠くへ行きたい。また,表現者でもありたい(感覚器になりたいこととの因果関係は必ずしも成立しない)。この表出する方向の根源的な願望のサイクルの何処かに,果たして言語の存在する意義,介在する余地はあるのだろうか。

 

「好き」とは何だったか,或いは何なのか。

ここを起点に考えると気分が良くない。それもその筈,憧憬も執着も渇望も没頭も,(もはや此処ではお馴染みになりつつあるが)「一巡目」に置いてきてしまったのだった。焦慮,相対的で内的な欠乏,信仰と救済,これこそが二巡目の宿命である。近頃は特に,一巡目の希望に満ちた他者の陽・躁的な発信を認知した時,真っ先に心が防御反応を示すようになってしまった。きっと自分にも(「相対的に」という四文字の庇護を加えたくなるが)それに近い時期もあった。ただ,今とはあまりにも異質である,それだけのことで,その明るさを第四象限で捉えているこちらの座標軸の設定が誤っている。

本来は感覚器の中に自我があり,憧憬があり執着があり,渇望が湧き,容易に没頭ができた。そこに文脈は滔々と流れていても,言語は介在していなかった。精確に言えば,断片的だった。あの頃は,写真は目的を達する契機の一つに過ぎなかった。それゆえ,その最中に撮影された写真の枚数は著しく少ない。しかし一巡目への梯子を外された後,己の次なる原動力となったのは,小さな好奇心は勿論ながら,「俺のほうがその被写体を俺にとって正しく撮れる」という過信でもあった事を思い出した。未だスマホ写真がさほど優秀ではなかった頃。デジカメの精度も甘く,ホームページの写真も粗く小さかった頃,そして未だ趣味者たちが今ほど海に漕ぎ出でて相互的に繋がろうとはしていなかった頃。当時の己の能力に較べてあまりにも高慢すぎる誤信であることは認めざるを得ないが,それを恥ずかしいとは思わない(現在の糾弾はしても,過去の否定は思考の選択肢に無い)。

それより重要なのは,二巡目の動機が,このように言語的な操作を経た欲求であるという点だ。本来の「好き」とは己にとって無条件で,言語とは懸絶したものであったのに,とある瞬間から,それを用いて過去や他者と相対的に捉えざるを得なくなった。しかしどれだけ時と熱量を注いだところで,言語は愛情を大きく劣化させた陳腐なコピーしか生まない。足掻けばその分だけ青空が遠退いてゆく。また何もしなければ,それはそれで砂に深く飲み込まれてゆくばかりである。その結果を知りながら,いつからかやむを得ず,足掻く方の道を選ぶようになった。

 

感覚器を起点にして考える。

自分の集中が五感を通じて世界に向く。世界と対話ができる。世界の話し相手が自分しかいない状況になる。その静かなる現在という無限の色を持つ変数を克明に,己という独自の関数に入力し,いつでもまた不変の逆関数で取り出せるように圧縮する。これが遠い日から今へと続く写真趣味における様式である。結局,感覚器に脳を支配される時間に感じるのは,言語からの逃避の幸福だ。「旅」には衝動的な必然性の湧出が必要になるので,何か良からぬ事でも起らない限り,言語的生活に規定された今の自分にはまず出来ない。それでも写真は撮り続けられるし,音楽は奏で続けられる。これからもファインダーを覗くだろうし,外出が難しくなれば鍵盤楽器を久々にやり直すだろう。

言語という日常に虐げられた時の逃げ場として,それらは唯一無二の機能を果たしてくれる訳なので,この一連の快楽的作業の中に他者や言語の介在する余地など,当然ながら有る筈が無い。しかしそれを後から振り返る際には,必ず言語的な操作を要する。それが日に日に苦痛となり,己の感覚器の意図するままに切り取った写真を,言語としてTwitterに投稿するというプロセスまでも,不自然極まりない行為に思えてきてしまった。外出する自分と投稿する自分が完全に乖離してしまったような感覚である。とうとう天邪鬼は自己の一部をも他者として切り離す事に成功してしまったようだ。さらに極めつけは,言語的な操作が無自覚のうちに,感覚器にフィードバックされてしまう点にもある。すなわち言語は,特殊な例を除けば己の感覚器の機能をも阻害しかねない要素なのである。

 

もう一つ,己にとっての言語のはたらきについて考える。

とにかく人と同じであることが嫌いだ。集合の一要素で括られることへの拒絶が強く有る。己はずっと昔から短気でせっかちで自分勝手で天邪鬼だ。たとえば鉄道撮影でもそうだった。先客なんて居てくれるなと思っていたし,ピーカンに晴れようが吹雪になろうが,同じ体験をした者は自分のみ(或いは同行者まで)が良くて,他に存在していてほしくなかった。定番撮影地よりも本当は自分だけの特別の場所が良かった。臨時列車よりも,定期列車の日常が見たかった。定番撮影地にステッカーだらけの三脚を立て,撮影後すぐ車に乗り込んで撤収し,ツイートで目立つような煩い連中とは根も幹も枝葉も全く全て違うのだと苦々しく思い,その差にすら気付けず安直なレッテルを貼る愚弄を第三者から受ければ,心の死角で嘲り蔑みもした。そんな時期も昔日,もうすぐ十年が経つが,きっと禀質ゆえに心そのものの変化は無いだろう。

波風は外界のあらゆる所に潜んでいて,絶えず己を狙っている。予想外の角度から襲来する事もしばしばあり,それを予知したり予防したりすることは不可能であることは,随分と昔から知っていた。それを受けて増幅された憂鬱の振幅を減衰させる唯一の機構は,言語であった。外的なものとその作用は,言語でしか記述することが出来ないのだから,当然である。あらゆる論理で丁寧に分析し,感情を解明し,さらに演繹・帰納の両輪を使い分けて外界と自己の境界を明確化し,それを言語として精確に(それは美しさをも意味する)表現することで,己は己を守る事ができた。自らの言語で掛け違えたボタンも,自らの言語で直してきた。言語思考力の訓練は,具体を抽象へと昇華する免疫の強化であった。

しかし諦念が形になるにつれ,その力はやがてアレルギーのように,自身をも蝕むようになってしまった。

 

 

結論として,己にとって言語とはもはや,蟻地獄へと墜ちる速度を緩めるため,また自己を外界から差別化するための道具としてしか機能せず,感覚器の機能を精神的自傷により不全に至らしめる脅威としてしか存在していないように思う。確かに己の言葉は己にとって真実であるが,それゆえに其処には排斥性があり(棘とは少し性質が異なるが,誰かの懐に納まることを拒絶する),対象に対して不必要で不誠実で,参照に不具合を生じさせる類の語句を多分に含んでいる。そんな尊大のN極と自罰のS極からなる弱い磁界に引力を感じる人間など居る筈が無い。貴方とこの記事を引き合わせた力は,きっとこの磁力ではない筈だ(もしそうなのだとしたら,それは貴方が相当に尊大で自罰的であることを意味してしまうだろう。貴方とは良い友達になれそうだ)。そして斥力すらも他者には与えないであろう。そもそも他者はそのように帯磁していないのだから…そう書きながら自分でも心底,馬鹿馬鹿しくなる。(それでもこの言語が他者に通じた時の安堵感,深浅はひとそれぞれだが類似の蟻地獄に落ちようとする人が他にも居ることからの仲間意識は,孤独だけは確かに忘れされてくれる。副産物というには少し大きすぎる収穫なのだが,それを欲する事が主たる目的とはなり得ないから,そのように表現しておこう。)

 

無条件の時代は疾うに終わってしまった。その諦念はもう,未来を変える事は無い。悪癖は希望のようなものをつい追い求めてしまうが,それがもう必要のないものだという事にも気付いている。ただ言語は他者に向けて砂塵を撒き散らし,ごくごく僅かな同胞に向けて鈍い光を発しながら,感覚器を蝕み虐げつつ,さらなる孤立と自責へ,深い蟻地獄の底へと己を引き摺り込んでゆく。

 

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