梟の島 -叙情的叙景詩-

-叙情的叙景詩-

「一巡目」と「ホーム」と「無いものねだり」。

 


 

Twitter上の発信者たちは皆それぞれのスタイルを維持しながら実に刺戟的な投稿を続けていて,大変興味深い。また一人一人,重視していること・ものの「比重」に個性が観測できるのも面白い。

例えば以下のような項目を設定すると,必ず全員が違った回答をするだろう。

・最も愛好するジャンル(例は枚挙にいとまがないが)

・外で過ごす時間を重視するか,あるいは建物の中で過ごす時間を重視するか

・外の場合,どの程度の集住の程度が好みか

 (大都市→地方都市→集落)

・非日常を愛するか,日常を愛するか

 (産業遺産→近代建築→歓楽街・温泉→商店街・学校→一般住宅・集落)

・現役を愛するか否か

 (往時のまま現役→転用等で公開→虫の息→廃墟)

・写真への比重をどの程度とするか

・交通手段の優先順位

 (車,バス,鉄道,徒歩,自転車)

まだ項目は必ずしも網羅的ではないだろうが,たとえばこのような質問に対し回答を貰ったら,かなり個の輪郭が明確になるのではないだろうか。もちろん,誰しもが緩やかに横断的にものを愛好していたり例外的なものを持っていたりするだろうし,嗜好も時間的に変化しているので,回答はスペクトラム的なものになるべきなのだろう。

さて自分はどうだろうと考えたくなるが,それはまた「解剖」の第二弾にとっておこう。ただし,すべてが一期一会だから,無くなる前に自分の目で見ておきたいという思いは,確実に根底にある筈である。

 

とにかく,無いものねだりには際限がない。未踏の街,知らない建物に知らない景色,知らない店や知らない旅館,或いは存在は知っているが自分は体験していない多くの場所たち。先人たちの投稿により己の興味関心の範囲内(それでいて,必ずしも自分にとっての優先順位が高く据えられてはいないところ)にある未知のものをタイムライン上で見るにつけ,「好き」「興味深い」と感じるのだが,その反面,焦燥のようなものに駆られることもしばしばある。はっきり言って皆,魅力的すぎるのだ。特に近頃は何だか自分がバラバラになりそうな感覚がある(これは憂鬱とは無関係の話)。何らかの投稿などを見た時,自分の中に絶望のような感情が湧き上がってくることまである。これが北海道や四国・中国に関する投稿だと高確率になるのだ。もちろん九州も,(頻度はやや低くなるが)近畿・東海ですら,心が似た反応を示すことがある。

しかし関東と東北では,ほぼそれが無い。それが何故かと考えた時,やはり自分の魂にとっての「ホーム」であり,自分の「内側」にあるのが東日本であるという事なのだろう。不思議な事に,ちょうどJR東日本の管内である。

そしてその外,すなわち「アウェイ」の世界にまで,実は自分の本当の意味での興味関心は及んでいないのではないだろうか。「人生の一巡目」が終わってしまったという事実が,ここにも大きな翳を落としている。結局のところ一巡目に内在化できなかった場所(あるいは行為)は,このまま永遠にアウェイのままであり続けることを意味しているのではないだろうか。アウェイの魅力的なものたちを内在化しようと足掻く行為が,二巡目の自分にとって矛盾を有している,そう考えると「バラバラ」になる感覚に説明がつく。

ちなみに補足すると,アーケード商店街では場所に限らず絶望的なものを感じたことが無い。ジャンルで絞った際,確実にアーケード商店街は自分の「内側」にある。このように,必ずしも場所のみで限定される訳ではなく,あくまで一巡目にどれだけ触れられたかが決定因子になるようだ。

 

アウェイのものが二度と自分のホームになり得ないという事実に対し,多少は悲観的にならざるを得ない(既に自分が二巡目に入っていることも勿論なのだが,それに誰かの手垢が付いているという事に対する幾許かの失望感というのも理由の一つとして存在している)。とはいえ開き直っている部分もある。内側の範囲にある未知のものもまだまだ数知れず,そして気分が乗れば外側にも興味が向くのだから。とにかく,ホーム・アウェイの線引きを自分の中に明確に持っておくことで,他者の投稿に対する際限のない「無いものねだり」に制動が掛かり,自分が本当は何を欲しているのか,惑わされなくなるのではないかと思った。

そう考えてから地図を見た時,本当に行きたい場所が2箇所,おのずと浮かび上がってきた。

 

 

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