梟の島 -叙情的叙景詩-

-叙情的叙景詩-

悲劇と自罰。

 

悲劇を欲してしまうのは何故だろうか。

楽しいものや心温まるストーリーに馴染めないと言うつもりは決して無いし,明るい物にも触れながら日常を過ごしているが,根本的な次元では哀しみや苦悩に触れて生きていたいと願ってしまっている。そしてそれは醜く薄汚い欲望だとも自覚していて,そんな己を日々静かに罰している。それでもやはり,これが今に始まったものではなく二十年の歴史を己の中に有するものであるからか,根源的な欲望に歯止めが利かない事がある。感情の振幅が負に振れた時に摂取したいと感じる,頓服薬のようなネガティヴネスはその卑近な一種で,これは小さなカタルシスへの期待に過ぎないだろう。しかしもっと深くて低い,可聴域を少し下回った通奏低音が,心の奥底のコンクリートの一室に絶えず鳴り続けているのである。奏でられる感情の和声は,全てこの真実の低音を礎としている。そしてその咆哮のような真実が何かを機に増幅され,その蠢きを無視できず制御できなくなった時,その振動数に共鳴する成分を外界に求めたくなるのである。

きっと人は皆,それぞれの固有振動数というものを持ち合わせているのだと思う(一つとは限らない,スペクトルのようなものである)。そしてそれに共振するものが,芸術や本には勿論だが,「土地」というものにも強く存在していると感じているし,信じている。これを欲するというのが,人が旅をする理由の一つではないだろうか。自分探しという粗末な言葉もあながち間違いではなく,ただ特定の土地にしか無い何かを求め,探し,何処かへ赴くのではないだろうかと思うのだ。これは決して意味の明暗や深浅に関係なく,仮令それが逃避行であろうが拐帯行であろうが,ファッションのような「旅行」であろうとも,何処かが気になるというのは須らくそういった共振現象なのだろう。

土地は環境であり,生活であり,宿命である。「親ガチャ」なんて言葉を言い出すのなら「土地ガチャ」もある筈だ。「ガチャ」では言葉の響きが乱暴で美しくないから,お馴染みの「宿命」とでも置き換えることにする。思考を司る言語すら土地によって異なるのだから,仮に親という変数を定数に固定したとしても,虱潰しに仮定できる範囲を遥かに超越しているくらい,土地という宿命的変数により人生は大きく左右されるに違いない。

これまで津々浦々歩いて来たが,己の心の咆哮の振動数は,商店街にも歓楽街にも,都会にも地方都市にも山村にも明瞭には存在していない。春にも夏にも秋にも無く,太平洋側にも中京以西にも無く,また深い雪に閉ざされる北の大地にも存在しない。ただ,本州新潟以北の日本海側,崖と海とが近接する海岸線に砕ける波濤にのみ,その音を聴くことが出来る。

この音は何故,己の中に鳴り始めたのだろうか。

今回,大切な海岸線で2日間,身を削りながらその音を増幅させることで,「恵まれていることへの犯罪意識」をどうしても己の中で拭い去れないという事に起因するのではないかという,一つの仮説が浮かび上がってきた。

天賦の性分によるものとも思うが,何かを欲しいという欲望をあまり持っていなかった。すなわち根本的な欠乏は無かった訳であるから,きっと恵まれた幼少期であったに相違ない。新たな物を欲するよりも,今あるものを愛で,己を囲む外界を愛し,失うことを恐れる子供だったと思う。そんな充足を端緒として順調に成長を遂げた己の人生とは,これまでに言及した事があるが,何をやっても85点止まりであり,また何をやっても85点は取らなければいけないという強迫観念に苛まれている人生,それを読み替えればこの学習能力をもってすれば85点は多少の努力で取れてしまう人生なのである。ある程度大人になってからの100点を取れない苦悩,出来て当たり前という自己認識による所謂「自己肯定感」の欠乏については充分に自分で理解しているし,既に文章にしたと思う。しかし今回の非日常においてさらに気が付いたのだが,85点を取れることが実に贅沢で恵まれているという事実を,かなり幼い頃から認識していたらしいのだ。己のような者が悩んではいけない,道を外れる事も許されないし,鉤爪を有する猛禽類らしく振舞い,正しく生きる事こそが自分なのだと,遥か昔から己に言い聞かせてきたのである。ここでさらに肝腎なのが,誰一人としてそれを己に強要した者は存在しないという事実だ。全ては己の俯瞰視点から形成された強靭な論理に起因しているのである。

兄弟姉妹は無いので,宿命の一部分を分け合う相手も無い。当然のように一人でそれを背負い込んだ。それでも85点を取っておけば,人生は大概は円滑に先へと進んでゆく。しかしその反復こそが日に日に,自分は何の努力もしていない,出来る事しかしない人間なのだという否定的な自己評価を,無自覚のうちにはっきりと形成していった。このくらい恵まれているのならば,人の為に己の能力と時間とを割くべきなのではないかという自責が充満し,それでいて何もしない意気地無しの己を,密かに片っ端から否定していった。こうして己の喜怒哀楽を全て後ろ暗いものとして自ら裁くようになってしまった。畢竟,この宿命とともに生きる事への罪悪感を,自らの思考により己の中に構築しきってしまったのである。

だからこそ,災害や戦争,貧困を強いられた歴史といった土地の宿命を己の肌で感じ,悲愴を心から悼み,無念の落命を弔うことで,罪滅ぼしをして,救いを求めているのではないだろうか。塚と慰霊碑と地蔵尊に手を合わせ祈った事を振り返りながら,そんな風に考えた。

このような憐憫は身勝手な傲慢であり,妄想に依拠するオリエンタリズム的思考であると,一連の仮説とそれに纏わる感情を醜悪なものとして当然のように自ら断罪してもいる。心の音を言葉として紡ぐ度に,その正誤を己に問う必要があり,それは往々にして早々に否定されるか,或いは悪魔の証明となるため,ひとたび何かを自問すればそのスパイラルは永久に下へ,内へと続いて行ってしまう。救済の挟まる隙間は無い。自分でも「失敗だった」と,己を見放して終わらなければならない。分岐点が無いから,結局これは何だったのかと,終いには初めから馬鹿馬鹿しかったようにも感じられてしまう。結局はこうして終止符にもう一つの自罰を付け加えるのが関の山なのである。

 

最後に,なぜその音が特定の季節と場所,冬の日本海からしか聴こえないのか。それは単に己の美的感覚によるものだと思う。喜怒哀楽をはっきりと持つ土地の景色,泰然と構える太平洋とは異なる人間的な日本海の怒涛と弱弱しい色(弱いからこそ荒れ狂うのだと擬人化して思ったりもする)が,己の犯罪意識を厳しく糾弾しつつも己の自罰を庇う。すなわち救いであり,或いは表現でもあるのだ。こればかりは純然たる主観であり,妄想であり,一見すると己に否定されて然るべき感傷と思考なのだが,どういう訳か己の感性や美的感覚については自らを肯定し信頼することができるらしいから,これに様々な物を委ねているのである。つくづく,忌々しいまでに気障な人間なのだ。

そしてこの一連を綴るまでは己の為だから良いとして,それを公開するというのは,気障な己の,孤独を甘受できない更なるみっともなさを露呈する行為だろう。此処に書いてある事は何一つとして正しくない。その自覚の上で,この際,其処までひっくるめて侮蔑され,嘲笑され,糾弾されても構わないから,間違いだらけで赤点の己をいっそ曝してしまおうと思う。

 

 

にほんブログ村 写真ブログへにほんブログ村 写真ブログ 建物・街写真へ