梟の島

梟の島 -叙情的叙景詩-

-叙情的叙景詩-

横浜・洪福寺松原商店街:4年半前の冬の日と,遠い幼少の日々を想う。

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遠い日を想う。 2016.12.17 洪福寺松原商店街

 


2016年12月17日(土)。くはね氏と予定を合わせ,2ヶ月ぶりの撮影小旅行へ。11時に東横線白楽駅で集合し,駅前の六角橋商店街仲見世・ふれあい通りを撮影した。

▼その1はこちらから。

anachro-fukurou.hatenablog.com

続いては相鉄線天王町駅へ。日用品市場跡と洪福寺松原商店街付近の慰安施設跡は共に解体済みで,撮影は叶わず。落胆していても仕方が無いので,気を取り直して洪福寺松原商店街を歩く。

 

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到着するや否や,想像をはるかに超えた喧騒に驚かされた。

 

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テントの上に空の段ボールを積み上げている。現役の商店の勢いを感じる。

 

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鮮やかな果物が並ぶ。

 

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人が多くて,建物の撮影は困難を極めた。角の焼鳥屋でテイクアウトし,ささやかな昼食をとった。

 

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冬の午後,既に影は長い。

 

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軒出の深いテントが印象的な菓子店。

 

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至る所に人だかりが出来ている。

 

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コロナ禍の商店街は今どうなっているのだろう。客層は中高年が多かったが,社会情勢の変化によってどのように姿を変えてしまったのだろうか。

 

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スーパーではなく個人商店がこのように賑わっているのを見ると,「嬉しさ」や「安心」で心が満たされる。

 

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これは決して「古い社会」の在り方ではないし,そうあってはならない。現代においても,そしてこの先の未来においても,このような形が絶えず続いてゆくことを強く願っているし,そうあるべきであると強く信じている。

 

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是非とも若い世代に,大きな店ではないところで買い物をする事の楽しさを,そしてその意味を考えて欲しいと,変わらぬ活況を誇る商店街を歩いていて強く感じた。

 

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思い返してみると,幼い頃の買い物の記憶というのは不思議と鮮明である。明らかに今よりも低い視点で,カートを押しながら歩いているスーパーの店内であったり,人混みを避けながら歩いている商店街の景色だったり,駐車場であったり。明瞭なディテールや特定の空間の映像が浮かぶ訳ではないのだが,そういった景色を頻繁に見たという感覚的な記憶が強い。

 

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今も昔も物欲の強くない人間なので,特に何かをねだったりすることのない幼少時代だったと思う。買い物の時間に感じていたのは,自分が欲しい物を手に入れられる楽しさでは無かった筈である。よく車酔いに悩まされていたし,買い物の最中に疲れた覚えも少なからずあるのだが,それでも全体としては不思議と鮮やかで,肯定的な記憶なのだ。

 

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地下商店街の魚屋のある一角,床のタイルが濡れている様子や,鼻をつく生臭い匂いであったり,肉の陳列された冷蔵ショーケースの冷たさであったり,その周辺にこびりつく真っ白な霜であったり,何種類もの牛乳パックやヨーグルトがずらりと並んでいる様子であったり。ある程度抽象化されてはいるのだが,そういった景色が色鮮やかに思い出される。それらは不思議なことに,菓子や玩具などの特別なものではなく,すべて日常生活で触れる,日用品の記憶である。

 

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幼い頃の自分にとっての幸福は,何か特別なことをしてもらった時間ではなく,何の変哲もない,ただの日常の時間にあったのだろう。今に残る記憶は,きっとこの証左である。大人になってからも一貫して,自身の非日常において他者の日常に没入したいと考えることとも,強く繋がっているのかもしれない。

 

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色々と思案していてふと,幼い頃に大好きだった「しろくまちゃん ぱんかいに」という絵本のことを思い出す。わかやまけん著の「こぐまちゃん絵本」シリーズの一作で,しろくまちゃんがおかあさんに連れられて買い物に行くというストーリー。その中に,沢山の野菜と果物が見開きいっぱいにずらりと並ぶページと,数々のパンが同じようにずらりと並ぶページがあり,「幼鳥」時代のフクロウはそれらに心躍ったのだった。もしかするとこういった幼少の憧れの原体験から,すべて現在の嗜好や思想まで一貫して繋がっているということなのかもしれない。

 

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絵本のことを思い返していたら,二度と戻らない時を想って,深夜に涙が止まらなくなってしまった。「帰りたい」という感情・欲求が,病的なまでに強いのだ。時間が絶えず前に進んでゆくことが己の根源的な欲求に反しているので,こうしてその事実が意識に上ってきてしまうと身が引き千切られるように苦しい。この苦しさを何らかの形に変えないと生きていられないというか,何かしらを自分から生み出すことでしかその苦しみを忘れられないのだと思う。

ここ数年は音楽という趣味を疎かにしてしまっているが,鄙びた景色を求める旅と写真に多くの時間を割き,その宿命的な苦しみを埋めている。別にこの趣味が逃避的な目的のみで成立している訳ではなく,好奇心もあるし創造欲のようなものもある。それでもやはり,感性の部分に深々と根差すのは幼少の安寧の記憶という心の傷であり,宿命であり,それでこその自分自身である。追い求める対象が仮に変わったとしても,「帰りたい」と思いながら現在を生きてゆくという「アナクロ」フクロウのテーゼは不変・普遍であり続けるだろう。

人はそれぞれ何かを背負って生きている。自分にとって趣味の活動とは,刹那的で快楽的なものではなく,こういった「生きざま」に直結した,重く,深く,崇高で,悲しみを含むものである。だからこそ,他者が生み出した結晶の重さ・深さ・尊さに心打たれ,それを美しいと感じるのだ。敢えて単純化するならば,明るいものは楽しく,暗いものは美しい。どちらを取るかと問われたら,間違いなく後者を選ぶ。こんなことは中学生の頃から考え続けているが,15年以上を経た今もなお自分はやはり美しくありたいし,美しいものを生み出していたい。何かしらの表現者でありたい(表現活動で生計を立てたいということを意味しない)という渇望そのものが,自分にとっては宿命的なものであり,時間を一方向に消費してゆくことへの恐怖を和らげることのできる唯一の鎮痛剤なのだろう。その産物を承認されたいという思いよりも,自分の思うものを思うように生み出していたいという願望の方が遥かに強いから,この薄暗い梟の島にしたって,自分にとっては最高の場なのである。尤も,さらに高い次元を目指したいという欲求も少なからずあるので,ここに留まることなく,暗く美しいものを思うように生み出すための在り方を追求してゆかなければならない。そうすることでしか,自分の人生を肯定することが出来ないのだ。傍から見ると悲しい性分なのかもしれないが,自分にとってこれが最も満足できる道であるし,そういった事にそれなりの時間とエネルギーを費やすことができているという現実は,皮肉にも幸福なものなのである。

 

磯子・工場夜景へ続く。

 

 

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