新川屋。 2022.12.31 流山
12月31日(土)。松戸にて「大晦日の初顔合わせ」。駅の南西,旧水戸街道とその周辺を歩き,純喫茶「若松」にて1時間ほど談笑。午後は駅の東側,陸軍工兵学校の遺構などを巡った。
▼その1はこちらから。
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そもそもこの日の行程を相談する際,どこか近場の私鉄沿線を歩くという話がまず出て,流鉄が候補となった。その周辺で,松戸,流山,野田といった街が散策のターゲットとなり,松戸集合に決まったのだった。
松戸に想像以上に長居できてしまったので,移動がすっかり遅くなってしまった。野田は諦めることになると概ね予想は出来ていたが,更に流鉄沿線を歩く時間もカットせざるを得ず,流山散策に注力することにした。緩行線で,馬橋へ移動。
ジェネレーション・ギャップ。
ICカードの使えない流鉄,馬橋駅は木造駅舎。車両には新年を迎えるヘッドマークが掲げられていた。
いざ走り出すと,まあ揺れる揺れる。車体のスプリングの柔らかさ,線路等級の低さが感じられる。流鉄は元・軽便鉄道である。
ちなみに,常磐線(日本鉄道土浦線)は土浦から流山,川口を経由する予定だったが,鉄道強からの指示により,流山を経由せず田端へ向かうルートが採用されたらしい。
沿線の風景や駅舎を眺めつつ,わずか6駅で終点・流山駅に到着。
カラフルな5000形が眠る。
大晦日。
冬の陽。
手書きの時刻表が掲げられるホーム。
4:55発,後から付け足したのだろう。7時台のダイヤは改正された時に上手く書き直せなかったのか。
この駅名標も古そうだ。
このベンチが妙に気に入ってしまった。
長い影。
ラッチを抜けると,上り列車が折り返して発車していった。
駅舎内の時刻表も,7時58分発がとんでもない表記方法となっているw
出札口の金文字を見て,富山地鉄の話を持ち出した気がする。
駅舎の外観。赤い屋根が素敵。
とても良い雰囲気で驚いた。少々到着が遅すぎたか,向かいの建物の影が壁や駅名標に長く伸びてしまっていた。
ベンチのあるスペースはタクシー乗り場だろうか。
駅前を後にする。
駅の西側を少し北上し,流山一丁目交差点へ。
「諏訪道」沿いの明治牛乳。
気付けば夕方,気付けば快晴。
信号のサイクルが複雑だからか,なかなか車列が切れず,撮影に暫し時間を要した。
広小路付近,諏訪道は北へカーブしてゆく。
海老茶色を夕陽が柔らかく染め上げる。
こちらの町家は現在も雑貨店として営業されている。2階の南面の持ち出し方がなかなかアクロバティックだ。文化財登録は無いようだが,建築年代はどのくらいまで遡るのだろう。
万上通りへ。
細道。
諏訪道の三叉路から南に伸びる道へ。
丁字屋。
その北側の建物も,修復はされているが躯体は古そうだ。SVを見る限り,2011年頃は個人宅,2015年頃にはギャラリーのような形で公開されている。2018年まで外壁はピンクで,この年を境に現在のグレーになったらしい。
裏道に入る。機能を失ったが,美しさはある。広義に捉えてゆけば,この美しさはトマソンのようでもある。
笹屋土蔵(国登録,1898移築)。日本橋越後屋の仕立て屋「笹屋」ののれん分けとして創業したという。2012年に改築し,開口部を設け,店舗として利用されるようになった。
棟瓦の模様。
ホンモノのトマソンとの邂逅。渋くて格好良かった。
再び元の道へ。
呉服新川屋店舗(国登録,1890)。水運業,酒,みりんなどの醸造業で栄えた地域に残る,歴史的建造物の一つである。
重厚な鼠漆喰,鬼瓦は大黒。
秋元家住宅土蔵(国登録,江戸後期・明治移築)。近藤勇陣屋跡に建つ。みりん醸造を行っていた秋元家が呉服「三河屋」の蔵を買い取り,現在地に移築したという。
裏側から見ると,瓦屋根がかなり傷んでいて心配だった。更に言えば,全く出入口が見当たらなかったのが不思議だった。
2022年,最後の斜光線。
寺田園旧店舗(国登録,1889)。寄棟屋根を載せた黒漆喰の土蔵造りは,かつて茶乾物屋の店舗だったものである。現在もギャラリーとして利活用されている。
清水屋本店店舗兼主屋(国登録,明治中期)。看板建築との折衷的意匠,階高の高さが際立つ,老舗和菓子屋の店舗兼主屋である。嘗ては看板部分の右横書きの店舗名が際立っていたのだが,かなり薄れてきた様子だった。
その2に続く。
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