2018年8月5日。下風呂温泉から,嵐の大間崎を経由し,牛滝からの観光船で仏ヶ浦を観光。その後もドライブを続け,下北駅まで戻ってきた。
今回の遠征は,まず下北半島に2日間滞在し,次に津軽半島を1日かけて周り,残り3日間で五能線沿線を行き来するという,計6日の青森海岸線周遊である。その中で小中野は唯一,メインのターゲットから大きく外れた場所であり,旅程にねじ込むのは費用的にも時間的にも大きな「ロス」である。しかし旅支度の際にリストアップしていった中で,今回,どうしてもこの「新むつ旅館」を探訪したかったのだ。パズルのピースがとても綺麗にはまったので,下北半島と津軽半島の間,長旅の2日目の夜にここを目指した。
下北駅を発ち,宿のために長旅を始める。依然として冷たい雨の降りしきる中,陸奥横浜あたりから先はうつらうつらと眠りに落ち,気付けば野辺地に到着。寝起きという事もあり,この乗り換えの列車待ちの間がもっとも寒く感じた。青い森鉄道でも何とか座席を確保し,八戸まで移動。八戸からの路線バスはうまく繋がらないうえ,所要時間も長いため,少々贅沢ではあるがタクシーで小中野まで移動。新むつ旅館に到着したのは19時20分頃であった。
いざ到着した新むつ旅館では,まず旧遊郭建築である内部空間を嗜む。
子供の頃から吹き抜けが大好きなのだ。この立体感。
二手に分かれた階段の上には,シンボリックな手摺の柱が。
複雑な空間構成。
中央の渡り廊下を見る。
柱がとても少なく(構造専門家の自分から見ると心許なくて仕方がない),異常なほど開放的な空間である。木材は軋むが,決して不陸は酷くない。補修もされているらしいので,まだまだこの先も現役で建ち続けていてほしい。
釘隠しも小洒落ていた。
部屋は二間続きの20畳の,最も大きなところを用意していただいていた。おそらく予約が一番乗りだったのだろう。
すぐに片付けを済ませて食事へ。先客は常連と思しき男性の1人客のみであった。宿に着いたとき人の気配が無かったのも頷ける。我々の他には,ねぶたに行っている組,食事に出ている組,親子連れという3組が居るとのことだった。
小さな食事部屋が厨房の横に設えてあり,NHKが垂れ流されているのを後目に,女将さんと会話しながら食事を頂戴する。生ほっけの焼き物,イカなどのお刺身,そしてホヤ(天敵なのだがここで頂いたものはとても美味しかった)などなど,どれも美味である。
女将さんからは,この家に嫁いできた時の話などを伺った。遊郭を廃業してから数年後というタイミングで嫁いできたらしいのだが,実際にこの家に来るまで,家業の話は一切知らなかったそうだ。いざ家(という妓楼)の建物を目の前にして「ここは遊郭だったんですか」と義母に尋ねる言葉が喉まで出かかったが,結局は言わなかったという。そういった事を気にしない性格の人であったからこその判断であろうし,だからこそ今こうしてここが旅館として存在できているという事でもあろう。
この他,本八戸を東北本線が通らなかった理由(東京からの疫病の伝播を嫌い,尻内(現・八戸駅)までしか来させなかったらしい)を聞くなど。お年玉・お盆玉のことを「お線香代」ということなど,一つ一つのエピソードが面白かった。
お風呂は小ぶりの家族風呂が1つ。食後すぐに貸切で使わせて頂き,あがった後,展示されている遊郭関係の資料(宿帳に相当するものや,当時のアルバム)にゆっくりと目を通した。
とても保存状態が良いのだが,この勢いで人々に見せていて大丈夫なのだろうか,少し心配にもなる。いっそ出し渋ってしまったって良いのに,とすら思った。
身形,職業,相手役などなど,丁寧に詳細に記録されていた。
アルバム。綺麗な写真が沢山残っていた。
これは,決して遠い過去の話ではない。しかし,「負」とされる歴史だからこその,知識の断絶を感じた。どうしてこうも,分からなくなってしまうものなのだろう。
華やかに着飾る遊女たち。彼女たちは何を思って働き,何を思って生きたのか。
遺された「ハレ」の写真からは見て取ることは出来ない。
ただ,この空間と記録のみが時間軸を超えて今日ここに存在し,記憶は途絶えてしまっているのだ。
遊郭についてもしっかり勉強せねばと改めて思った次第である。
雨露でぐっしょり濡れた靴に,女将さんから頂いた新聞紙を詰め込み,就眠。今日もあっという間に一日が終わっていった。下北半島周遊は,早くも終わってしまった。
翌朝,6時に起床。外はまだまだ雨が降っているどころか,雨脚は昨晩よりも強まっている。支度と会計を終え,出発。強い雨風の影響で,外観の撮影にも手こずった。
酷い雨だった。
この豪雨ゆえに写真をたくさん撮れなかったのが残念である。
そして小中野の駅が思ったよりも遠い。さらに,八戸線の0654発を0656発と勘違いしており,とんでもなくギリギリになる。ヨメ氏に先にホームに上がってもらい,十秒ほど,列車の発車を待ってもらう始末。とんでもなくズボラなスタートとなってしまったのだった。
そして2020年,こうして2年弱前の写真と自ら綴った紀行文を振り返って整理しながら,写真の記録に付随する記憶というものは,当事者の中に留まってしまい,第三者への経験の伝承は必ずしも出来ないという,当然のことを痛感した。
そして自分は,見る者の感性には訴えかけたいのだが,見る者に「解釈」(誤解を含む)をさせる余地を残さない,絶対的な写「真」を目指したいと改めて思った。そして,やはり何事にも文脈が付いてまわるのだから,補足的であろうが説明的であろうが,言語情報を付加することは,自分の表現の様式としては不可欠なことなのだろうとも感じた。
自分を知る人,自分に興味を抱いてくれる人,或いは未来の自分をも含め,そういったすべての対象に対して平等であり,普遍的で客観的な表現を目指したいと思う。その対象を選ぶところまでが主観的であるべきであり,表現の結果として他者の感性に何かが届けばよいのだから。現在の手法で行き届いていない部分とは何なのか,この先も模索してゆきたいところだ。
青森・第三新興街へ続く。
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