梟の島

-追想の為の記録-

旧北陸本線沿線散策(12):筒石駅の夜。

斜坑跡。 2023.01.21 筒石駅

 


1月21日(土)。「旧北陸本線沿線散策」の初日。直江津駅から名立駅へと歩き,その後は鉄道移動。能生の街で日没を迎えた。

▼その1はこちらから。

anachro-fukurou.hatenablog.com

さて,未だ夜は終わらない。

 

大荷物は宿に置いて,カメラのみを携え,能生駅に戻る。ライトアップされていて驚いた。

 

「新駅」「新線」も,半世紀の歴史を持つ。

 

ホーム。バラストには,黄昏時から降り始めた雪が薄らと積もっていた。その彼方から,ヘッドライトが近付いてくる。

 

トキてつの現代的な車両に乗り,頸城トンネルへ。

 

数分の乗車の後,隣の筒石駅にて下車。直江津行を見送る。ブザーの音が大断面のトンネルの中に響き渡っている。

 

尾灯が小さくなり,ゴオオオォォ…と列車の走行音が減衰してゆくと,異様な緊張感が空間に張り詰めていることに気付く。

 

さて,ここは筒石駅。頸城トンネルの中ほどに位置する,所謂「モグラ駅」の代表格である。

 

筒石駅が何故このような構造になったのか。この記事で,この土地の「激闘」の文脈を纏めるのは難しいが,事実のみを箇条書きにしてみようと思う。

 

・今回歩いている「久比岐自転車歩行者道」は,北陸本線の旧線である。1912年に開業した旧線は,単線・非電化である。

・戦後の貨物輸送の増大に伴い,日本海側を貫く奥羽・羽越・信越・北陸本線は「裏縦貫線」「日本海縦貫線」と呼ばれ,北海道と近畿を結ぶ最短経路として,物流面から極めて重要視されていた。しかし,経済成長期の列車本数の需要増加に対し,単線であるため線路の輸送力は既に限界に至っており,複線化・電化を行う事が喫緊の課題となっていた。1950年代より,近畿方面から順次,複線化工事が進行していた。

・しかし直江津~糸魚川間は,勾配は緩やかなもののカーブが多く,高速走行の実現が困難だった。

・更にこの区間は所謂「糸魚川静岡構造線」上にある。新第三紀層に第四紀層が不整合で乗る地質条件を持ち,地すべりの頻発する場所であった。(先の記事で「名立崩れ」についても言及している通りである。)

・1963年3月,能生小泊で発生した「小泊地すべり」は,集落の人家31戸を埋没させ,死傷者25名を数える激甚な災害であった。この時,貨物列車も転覆した。なお同区間では1934年にも地すべりによる不通が生じている。

・防災的な観点を重視した上で複線電化のルートの選定が行われた結果,旧線のある沿岸地区では地すべり区間にトンネルの坑口が出来てしまうため,複線化を行うことが困難であることが分かった。

・この調査結果を踏まえ,3案の新ルートが検討された。A案は最も強烈なもので,直江津から能生までを21.3kmの長大なトンネルで貫き,中間にある筒石,名立,有間川,谷浜,郷津の全駅を廃止するというものだった。B案は能生~有間川をトンネルで結び,筒石,名立,郷津を廃止する案。C案は能生~有間川を2本のトンネルで分割して結び,名立駅は街から離れた場所に移設して存続。筒石,郷津の2駅を廃止するという案だった。

・すなわち,いずれの案においても,筒石駅は廃止することが計画されていた。

・この案について,自治体との交渉が行われた。通勤通学,漁業物流の足が無くなり,また海水浴場も大打撃を受けるため,沿線では複線化・駅廃止への大規模な反対運動が展開された。

・工事の現実性や工費との兼ね合いもあり,C案が採用されたが,依然として筒石駅は廃止の計画のままであった。能生町は筒石駅の存続を譲らなかった。さらなる交渉を重ねたが折り合いがつかず,早期着工を目指したい国鉄から,筒石駅を,工事用の斜坑を転用した新駅として移設・存続させる計画が提示された。

・これらを自治体が承諾し,現在の新線の形で工事が着工した。

 

以上が,この有名な「モグラ駅」が誕生した大まかな経緯である。

新線のトンネル工事も難航を極め,長浜トンネルなどで殉職者を出す痛ましい事故も発生してしまった。1969年,頸城トンネルを含む新線が竣工し,旧線は廃止された。

その28年後に民営化,その更に28年後にえちごトキめき鉄道に移管。半世紀以上の時を経て,現在に至っている。

 

これらの文脈を踏まえ,駅構内を見学してゆく。

 

換気音,水の音,西日本60Hzの音。

 

肉眼でもかなり暗い。使用している機材がノイズ処理に長けていないので,撮影もなかなか難しい。

 

常に耳の奥を押し付けられているような,ボウッとした感覚は,巨大な閉鎖空間の中で音の反響の具合を感知していることや,気圧の微妙な具合から覚えるものなのだろうか。

 

下り線から,上り線を望む。ホームが千鳥配置になっているのも,トンネル断面の関係である。

距離があり,暗く,五感がまともに機能しないこと,退路が一つしかないこともあり,初めの数分はとても心細く感じた。

 

国鉄の名残。

 

扉を開け,締める。ホームに接続された待合室。

 

扉を閉めた瞬間から,急に空気が静まったような感じがした。

 

階段を上ろう。

 

細部に見る時代。

 

上下ホームへの通路の接続部。

 

緑の断面。

 

豊富な地下水の存在を随所に感じる。

 

丸文字の時代を偲ぶ。

 

最後の角を曲がり,地上まで真っ直ぐ上がる。

 

想像しているほど長い階段ではないのだが,空間を噛み締め,ゆっくり撮影しながら,上ってゆく。

 

地上の待合室が見えてきた。

 

到着。

 

駅の中には終日,夜が続いているようなものであり,時間の感覚を忘れてしまっていた。駅舎の外は当然ながら真っ暗だった。駅から街までの道中には殆ど何もないようである。

 

開駅記念日(1912年12月26日),そして新駅開業(1969年10月1日)の記録が,駅舎の片隅に残っていた。

 

さて,下ろう。

 

曲面に貼られたディテールたち。

 

左へ曲がると,緑色の空間。

 

下りホームへの分岐。

 

今度は上りホームへ向かう。

 

立体感。

 

上りホームの待合室。

 

ホームに出ると,やはり空気が強く流れている事が分かる。

点対称なので,下り側から見た時と瓜二つである。

ディテールに,上下線の差を見る。

 

そう,此処は北陸本線であった。初めて乗ったのは,2005年1月。中学2年の冬休みだった。

あの日,車窓から見た筒石駅,そして荒れた日本海の事を,今でも良く覚えている。

 

列車の接近を知らせるブザーがけたたましく鳴り,戦慄が走る。待合室の扉の上の電光板が光っていた。

貨物列車の通過時にはホームに出るな,というようなことが書いてあった気がする。

 

列車はまだ随分と遠くに居るのだが,走行音が反響し,すぐ近くに居るような錯覚をおぼえた。

 

上り列車,泊行が入線。1時間の滞在で,筒石駅を後にした。

当然ながら,この時間,駅を利用する客は自分の他に一人も居なかった。

 

たった一駅分にしては大袈裟な切符を買い,能生に戻る。

 

到着。列車を見送る。

地上は随分と寒く感じた。

 

無人のラッチを通り,駅舎を出た。

宿に戻る際,店で夕飯を食べる事も考えたのだが,流石に疲れていたので,ローカルスーパーで惣菜を買い,部屋で食すことにした。少し食べ過ぎて悪心を起こしたのも記憶に残っている。

ちょうど他の方が風呂を使用していたので,部屋付きのユニットバスで済ませてしまった。Bluetoothのキーボードを持っていたので,短い記事をリアルタイムで更新し,翌日に備えて就眠した。

 

その13に続く。

 

 

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