仄暗いアーケード。 2021.10.08 岐阜・柳ケ瀬
10月8日(金),岐阜出張当日。午前中は金津園・国際園跡,日ノ本町,繊維問屋街を散策。仕事を終えた後も再び街に繰り出し,夕刻の柳ケ瀬を撮影。柳ヶ瀬センターで日没となったが,その後もアーケードの明かりを頼りに撮影を続けている。
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柳ケ瀬「高島屋南」は大規模な再開発の対象となり,工事が着々と進んでいると聞いていたが,景色はどのように変化したのだろう。網目状に展開されているアーケード商店街は2021年10月現在,どのようになっているのだろうか。昨晩からのハードな行程でかなり疲労が蓄積していたのだが,引き続き気力を振り絞って歩いてゆく。
松竹小路のすぐ東の一角。
「促成青果」の街角。
角の建物がひとつ抜けたアーケードの交差点。
仄暗い。
北に折れる。
若宮町通りに突き当たったところにも,煌びやかな「ガイド」の看板があった。店舗自体は休業中のようだった。
横長のハニカム看板。
紫がアクセントになる。
余所者には難易度高めの閉鎖空間。
暫し見惚れてしまった。
もう一つの閉鎖空間。
元の四つ角に戻って来た。
緩やかにカーブする街。比較的新しい店が多かった気がする。
次なる四つ角。このあたりは弥生町の一つ東の小柳町になる。
東を望めば,奥には長良橋通りが見える。流石にこの先まで歩き切る気力が無かったので,この四つ角からの望遠構図で見納めとする。
南へ下りる。絶妙なカーブ。
この辺りにも露出度の高い女性の写真が掲げられている。この状態で人々の生活に馴染んでいるようだ。
柳ケ瀬本通へ。ストリートビューで見ると,アーチ状のアーケードは光を透過するポリカ波板で作られていた筈なのだが,どうやら封じられてしまったらしい。折角の線の情報が失われてしまったようで,少々残念である。
巨大な壁。
洋傘とショール。J-POPの曲名のようだ。
本通からさらに南へ。
高島屋の北を東西に走る道。どこまでもアーケードである。
さんひのでまち。
この道に関しては,人通りはほぼ皆無で,界隈で最も暗かった。
突き当たりから振り返る。この暗い道を敢えて通る人など居る筈もない。
元の道に戻り,西に進んだところから振り返る。
高島屋の北東の角から西を見る。
ここは「劇場通」。黄緑の柱が印象的だ。
特徴的な装テンのある街角。
この写真の左側が完全に再開発工事の対象地区となっており,「玉屋工芸社」のある四つ角に象徴される高島屋南の街並みは跡形も無かった。
岐阜東西通りまで出る。
ずらりと並ぶ看板,壮観。
劇場通りの南端。
これにて柳ケ瀬の散策を終了。やはり「高島屋南」は跡形も無くなっていたが,その他のアーケード商店街は健在だった。柳ケ瀬の歴史を感じられる街並みは,ここ数年で何箇所も失われてしまった。これまで縁が無かったから仕方がないと言えばそれまでなのだが,今回の探訪では「一歩遅かった」という印象が強く心に刻まれた。このタイミングの記録は,時代の移り変わりの最中を写したものとして,後年振り返れば面白く思えたりもするのだろうか。
さて,ここ1年半ほどの出張兼旅行において,コロナへの配慮から殆ど外食はしなかったのだが,今回は少しだけ情勢を鑑みて自分の中のラインを緩める事にした。まだ少人数の客しか居らず店内が静かそうだったので,外食復帰一発目は「ステーキのくいしんぼ」という店へ。ハンバーグと焼肉のセットを注文した。
歩き回った一日の夕食に相応しいボリュームで,美味であった。
猛烈な勢いで完食。長居は無用,店を出て駅へ戻る。
北口広場の象徴的存在,名鉄・モ513号。
丸窓電車の異名を持つ。
2年半前にここに移設された。とても丁寧に保存されている印象だ。
これからも多くの人に認知され,愛されますように。
19時45分で岐阜駅を発ち,高山本線に揺られること30分強,美濃太田駅に到着。
美濃太田泊は8年ぶりである。駅前の景色を見ると以前の記憶が鮮やかに蘇り,それと同時に駅前にコンビニが無いことも思い出させられた。重い荷物を背負い,旅館まで10分ほど歩く。チェックインを済ませた後,宿から駅とは反対方向にさらに5分ほど歩いたところのコンビニで,水と酒と翌朝の食事を調達した。狭いユニットバスでシャワーを済ませると何だか億劫になってしまったので,共同風呂には行かなかった。
本日の旅館は「OYO旅館 栄屋」。部屋は質素な和室だ。これを求めていた。
金曜日の夜,21時頃から畳の上で寛ぐ。今日の写真を整理し,翌日の計画を確認した後は,ビジホと同等の金額で手に入れられるささやかな幸せを噛み締めた。
美濃太田の朝へ続く。
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