梟の島 -叙情的叙景詩-

-叙情的叙景詩-

色鮮やかな世界と,白さを失ったキャンバスと。

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僕が美しいと思うものを同じように美しいと思う人は居るだろうか。その根底にある感性を理解できる人は居るだろうか。

そんな自分が情熱を捧げられる対象とは何だったか。昔は確かにあった筈なのだが,あれは青春の熱病の最中に見た幻影なのだろうか。

夢から醒めて久しいからか,今や何もかもが85点満点に見える。既知であろうが未知であろうが,他人の投稿で存在を知ろうが街中で奇跡的に邂逅しようが,どれだけ好条件が重なっても85点の存在にしか思えない。そんな諦念と期待が織り交ぜらた厄介な感情をも理解できたり,共有できたり,それに寄り添ってくれたりする人は居るだろうか。

 

よくブログをタイトルの通り「島」に喩え,Twitterを「灯台」に喩えて考えている。僕はこの島を発展させるべく淡々と日夜労働し,霧の無い晴れた夜には,不思議な色の光を不思議なリズムで,灯台から真っ黒の海に向けて放っている。こちらから向こうの存在は見えない。たまたま今は居ないのかもしれないし,そもそも居ないのかもしれない。それでも,得体のしれない,底知れぬ寂しさを埋めるために,こうして毎日のように発信を続けてしまう。いつかたまたま近くを通りがかった船や飛行機や鳥や魚が,興味本位で近寄ってきてくれないだろうか。これはフォースとは真逆の,暗黒面の渇望だとも常々思う。

こういった「メタ的な投稿」を投稿と並行して行っている人を,そもそも殆ど見掛けない。希望と絶望の均衡がきっとどちらかに崩れているのだろう。それでも写真やキャプションのサンプル数が増えてゆけば,投稿内容の裏側はおのずと見えてくるように思う。仮に隠そうと思っても,決して隠し切れるものではない。表現は能動的である限り必ず無防備なものだ。

逆も然り,だと良いのだが。一つ一つのカードは決して強くないが,その通奏低音を感じ取って,理解してほしい。美しさと隣り合わせの虚しさを,快楽に彩られた絶望を見出して,あわよくば寄り添ってほしい。

 

僕がこの島に棲みはじめる際に探し求めていた「未だ見ぬ友」とは,書き言葉の自分のまま話をすることが出来る存在なのだと思う。もちろん共に過ごす時間が楽しければ,そこにはおのずと話し言葉の自分が存在するのだが,書き言葉になっても話が通じるから大丈夫という安心感があるのとないのとでは,その楽しさの持つ意味は結果的にまるで別物になるのである。

人に対して完璧など求めてはいない。全部満足しない限り友に非ず,というような極端で排他的な発想の持ち主ではない。グラデーションがあってよい。ほんの一部分でも掠めるものを感じてくれれば,それだけで充分に幸せなのだ。高い要求をしているつもりもない。大衆がそうするように真正面から一見すると歪で狭い孔かもしれないが,ひとたび側面に回れば丸裸なのだから。

 

さて,このように,人に対しては適切な距離を確保しながら健全な期待を掛けることが出来るようになってきたのだが,これが「もの」になると話が変わって来てしまう。既に書いた通り,どう頑張っても100点を見つけられないことが,時に苦しくて仕方がない。

無言の期待を背負い、自らにも無意識に期待値を据え置き、それを再現する。出来て当然。自分自身に対してはこのような病的な厳しさを強いているらしいのだが,これと同じような厳しさを「もの」に対しても背負わせてしまっているのかもしれない。きっと愛(もちろん偏愛)ゆえに,だろう。うわべだけの成功を得たところで、一連の行為はただの確認作業としての意味しか持たない。まるで今はテーマパークの中で生きているかのように思えてしまう。

尤も,意味だけを抽出して考えれば,世界なんてものは所詮,テーマパークなのかもしれない。そんな風に捉えてしまうと,ついさっきまでは85点だったものですら,60点,酷ければ40点に見えてきてしまいそうだ。

しかし,思考の下道でふと足を止め,自問する。僕の核たる部分には,こういったシニシズムは存在していない。鬱陶しいほど暑苦しいはずだ。何が違うのだろう。ごく簡単なことで,さっきの段落で意味だけを抽出したことが間違いなのである。意味などという下らないものを超越した美しさと尊さが,世界には確かに存在する。冷たい雨の降りしきる一日の終わりに見る桃色の夕焼け空,見知らぬ土地でひとり聴く五時の鐘。下見板壁をあしらった妻入の建物が並ぶ,日本海側の漁村。いかがわしい残り香のする鄙びた歓楽街の路地,真空のような静寂。雨と緑に侵されはじめた嘗ての学び舎の廊下,打楽器のように響く自分の足音,熟成した土と黴,苔生した木の匂い。黄金色の太陽に向かって河川敷を歩く親子の後ろ姿,浅く斜めに伸びる影法師。世界はまだまだ美しい。きっと,ずっと,美しい。

趣味の分野に限定してみれば,この十年ほどで,みるみるうちに美しいものが姿を消している。総体として捉えれば無機質になるばかりで,面白みや尊さ,美しさの総量は確かに単調減少を続けているのかもしれない。しかしもっと重大なパラメータがある。総体として捉えるのが相応しいほど人生は長くはないし,世界が回る速度よりも,自分のほうが遥かに速く変容していっているのだ。自分が美しさに対して鈍化している事の方が,遥かに深刻な問題である。

先月,旧友たちとオンライン飲みで話したことを思い出した。「今の自分で過去に遡りたい」というような事を一人が口にして,「俺は逆かな」と即答した。過去の自分で今を生きたい。どちらも真だな,というところに落ち着いた。ほんの一瞬の,会話のごく一部分にすぎなかったが,深夜の自分が脊髄反射のような思考速度で「逆」を口にしたことには自分でも驚いたし,その事が妙に鮮やかな記憶として箪笥の取っ手のすぐ近くに収納された。その反動で残りの時間の記憶が驚くほど希薄になってしまったくらいである。

今の自分のままで10年,20年,あるいはもっとダイナミックに遡ることができるなら。時間軸を遡上したいという夢のような願望は,この人生に通底するものなので,それに真正面から応えてくれるという事だ。特にものを見る目や写真の技術,知識・見聞という点において,一定程度まで成熟した今の自分にとって,きっと最高の時間旅行になるだろう。しかしまあ,ある種の御伽話である。

では逆に,過去の自分で今を,未来を生きることができるなら。255系と257系を懐かしみ,205系や211系を追い掛けて鶴見線八高線日光線両毛線へと赴き,E2系の車窓に旅情を感じることができるなら。もう一度まっさらな記憶のキャンバスに原体験を描き直すことができるなら,それは幸福か。それには「フォーマット」が必要になるのだろうか。これもまたある種のSFである。

残念ながらどちらも叶うことは無いと,頭では理解している。御伽話もSFも,実現不可能な理由を時間軸に求められるからだ。しかし後者を実現できないのは,どこか自分の所為のようにも思えてしまう。ものと自分自身への異常な厳しさが,その責任の所在を自分に見出そうとしているのだ。甘んじて今を受け入れなければならないと頭では分かっているのだが,心がそれを許そうとしない。

自分のキャンバスが白くなくなってしまったから,もう上書きができない。変容してしまった自分を諦めずに居られるか。感情の振幅が小さくなってゆく未来に,人生の渇望は存在しうるのだろうか…。

 

何年後かの自分が「今のところまだ大丈夫そうだ,31歳の頃と大して変わっていないよ」と答えてくれているような気がしたので,どうせなら今という時間を85点で埋め尽くしてやろうと思う。

 

ついでに,いつか時間があったら,御伽話とSF,それぞれを短編小説として書いてみても面白いのかもしれない。もしも完成したとして,そんな代物を,いったい誰が読むのだろうか。

 

 

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