セーラー万年筆。 2022.01.10 常陸太田
1月10日(月祝)。年始一発目の水戸出張の前日,常陸太田へ。駅前の山下町と木崎二町を歩いてから,太田七坂を巡りつつ,鯨ヶ丘の南半分を悉皆的に歩いた。
▼その1はこちらから。
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内堀町の信号から,棚倉街道を北へ進む。ここから先が,鯨ヶ丘の北半分である。
彩度と陰翳が強くなる。
この辺りにも商店が並ぶ。立派な街道だ。
既製服の「既」の字が左右に,洋品の「品」の字が上下に反転しているのは,どういう意味なのだろう。
駿河屋宮田書店店舗兼主屋(登文,1810)。平入の土蔵建築は,現役の書店である。
セーラー万年筆の看板のある,大森文具店。
よくぞ令和まで残っていてくれた。
丸八洋服店も渋い。常陸太田,想像以上に良い街だ…。
ヤンマーディーゼルのCMも見なくなった。或いは単に自分がテレビを見なくなっただけなのか。
大野紙器店。
街道のすぐ傍らまで,崖地が迫って来たようだ。
日の当たらない夕べ。
この辺りは交通量が多く,静寂に包まれた南側とは空気感が異なっていた。
ヨネビシ醤油の広大な敷地に建つのは,嘗ての店だろうか。
竜神大吊橋行のバスが通り抜けていった。
いったいどこまでを鯨ヶ丘と呼べるのか,定義が判然としないのだが,中城町の信号に石碑があったので,ここが北端だろうか。この先,街の東西の幅は広がるが,まだ暫くは両側に崖を持つ高台が続く。引き続き「延長戦」として,棚倉街道沿いを北に歩いてゆく。
「人形 瑞月 提灯 沼田本店」
町名は,先程の信号が示す通りの中城町。中城町や内堀町は東に細長く伸びた形をしていて,必ずしも台地の上を示す町名という訳ではない。
ここも沼田屋。
東京庵。本日の宿である。日没との勝負の最中だったので,荷物を持ったまま通過した。此処から先,町名は栄町になる。
最後の残照。
橙に染まる西の空。
少し肌寒くなってきた。
富田屋商店。
2013年のストリートビューで存在している幾つかの古い建物は解体されていたが,街の雰囲気は良く保たれているように感じた。
高倉製材所。桃色の夕陽が,スポットライトのように2階を照らしていた。
太田一高入口の交差点にて。ここから北の町名は馬場町となる。
「たか松」の看板建築との邂逅。正面が増築されているこの構成は,東二町の中華料理店「豊龍」と類似といえる。左隣,背面の建物と接続されているようだ。
にょきにょきとツノが生えている。往時のファサードを拝んでみたいものである。
たか松の南側に,路地が伸びていた。
所謂「太田落雁」に程近い場所である。
古い家屋。人の気配は無く,猫が闊歩していた。
ここもまた,独特の静寂に包まれていた。
いよいよ太陽は隠れ,残照が雲のみを桃色に染めていた。街道に戻り,もう少しだけ北上しよう。
金澤屋商店。
これもまた,良く残っていた。
古い看板は稀に,文字が二層浮かび上がる。木更津や多治見でも,こういった「難読看板」に出会った。ここも現地では一部しか解読できなかった。2013年のストリートビューで見直すと,灰色の文字は「ロープ 荒物類」,紺色は「青果 食料品 雑貨」だった。9年弱の間で,いよいよ褪せてきたようだ。
森印刷所。平屋の愛嬌というものを感じる。
左側の更地の並びにはかつて,手書きの大きな看板を掲げた「石川風呂桶店」の建物があったのだが,残念ながら解体済である。空撮で更地になっている事が分かっていたので,落胆は無かったが,やはり全盛期の姿を見てみたかったとは思う。
今日が終わってゆく。
この左側にもモルタル塗の「小泉商店」なる店があったのだが,解体済。奥の割烹・仕出し「双葉」も廃業して久しい雰囲気だった。
馬場町の信号の先に,ハリカ。
嘗て店舗だった雰囲気の建物。いよいよ商店の姿が見えなくなり,ここから先は住宅街のようだ。嘗ての棚倉街道は馬場町で右に折れるらしいので,ここから先は街道沿いではない。そういった観点からいっても,ここから先には見所は乏しそうだ。当初の目標としてもこの辺りまで来られれば御の字と考えていたので,ぎりぎり日没までに計画を遂行することができた。ほぼ座ることもせず何も食べず,5時間近く歩き続けたので,どっと疲れが出た。
いつか馬場町から先,棚倉街道沿いの街をひたすら巡る旅というのをやってみても面白そうである。もちろん車が必須になるが,矢祭まで抜けて,大子,大宮と巡ってくるのは,なかなか楽しそうである。あるいは那珂川町方面に抜けてみても良いかもしれない。
食事のことを考えながら,南へと引き返す。この後まだまだ体力を削られることになろうとは,この時点では知る由も無かった。
その8へ続く。
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